判例コラム

 

第181回 欧州におけるヒト幹細胞研究の今後

高島国際特許事務所※1所長
弁理士 高島 一

以前に、わが国におけるヒト胚性幹細胞(ES細胞)研究に関する法規制の問題点についてお話したが、昨秋、欧州司法裁判所(CJEU)が下したヒトES細胞の使用に関する判決が物議を醸しているので、簡単にご紹介したい。

ボン大学のBrustle教授は、パーキンソン病等の移植治療に用いる神経細胞の製造のためのヒトES細胞の使用に係るドイツ特許を保有していたが、環境保護団体であるグリーンピースは、「ヒト胚の産業もしくは商業目的での使用は特許対象でない」と規定したEUバイオ指令98/44に違反するとして、無効訴訟を提起した。ドイツ連邦通常裁判所は、CJEUに対して3つの質問を付託したが、このうち特に今回問題となっているのは、第3の質問「技術的教示(特許請求の範囲と読み替える方が分かり易い)にはヒト胚の使用について明示されていなくとも、その前提としてヒト胚の破壊を必要とする場合は特許対象となるか?」に対するCJEUの判示である。

即ち、CJEUは、発明がヒト胚の事前の破壊又は原料としてのヒト胚の使用を必要とする場合、その使用がどの段階で生じたとしても、また、特許請求の範囲にヒト胚の使用が言及されていなくとも、当該発明は特許対象から除外されるとの判決を下した。このことは、細胞バンクに寄託されたヒトES細胞を用いて発明を実施できる場合でも、そのヒトES細胞も元を正せばヒト胚を破壊して樹立されたものであるから、特許対象外となることを意味する。

判決直後から、ケンブリッジ大学のAustin Smith博士をはじめとして多くの欧州の研究者が、欧州における幹細胞医療の研究が阻害され、海外流出を招くことへの懸念を表明している。確かに悪影響の方が多いかもしれない。ただ、欧州の研究者や企業のみが不利益を被るというわけではないように思われる。幹細胞医療の実現のための研究開発には莫大な費用がかかるので、米国に次ぐ医薬品市場である欧州で投資の回収が見込めないとなると、バイオベンチャーや製薬大手の研究開発意欲を阻害し、臨床応用が立ち遅れることが懸念されるが、これは欧州企業に限ったことではなく、むしろこの分野のトップを走る米国企業にとって逆風となるように思われる。欧州企業はパテントフリーの状況下で他社技術の自由実施が可能となり、米国企業との競争力を高めることができるかもしれない。

以前にも述べたが、わが国が既存のヒトES細胞の使用研究にさえ依然として厳しい規制を課しているのに対し、欧州では、カトリックの影響力が強く、樹立研究を禁止しているフランスやイタリアですら、使用研究は推進する方向に政策を転換している。今回の判決は、あくまでヒトES細胞の使用に係る発明について特許をとることができないということであって、ヒトES細胞研究自体が否定されたわけではない。ただ、この判決を盾に、研究推進自体に圧力をかけようとする勢力に対し、各国政府は断固とした姿勢を示し、欧州の研究者に対してより大きな予算を投入するなどして、アカデミア・民間企業の研究開発意欲をそがない努力は必要であろう。

いずれにしても、今回のCJEU判決を、欧州特許庁(EPO)がどのように解釈し、運用するかが注目される。EPOは現在、数年前の審決に基づいて、ヒトES細胞が公的に利用可能となった2003年5月以降の出願については特許対象と認める運用を行っているが、CJEU判決を普通に読めば、かかる運用を続けることは難しいと思われる(法律家からすれば、そもそもCJEU判決はEPOを拘束するかという問題提起もあろうが、この点には触れない)。但し、CJEU判決には曖昧な部分も多く、解釈論でもって、ヒト胚の使用とは関連性の低い、あるいは付随的な発明(例えば、培地、培養器等)を特許対象として許容する余地はあると期待される。

ところで、わが国では、今回の判決により、ヒト胚の破壊を必要としないiPS細胞の実用化推進に拍車がかかるとの期待の声も聞かれるが、CJEU判決を最も厳格に解釈すれば、ヒトiPS細胞技術に係る発明も特許対象外となり得ることに留意する必要がある。なぜなら、iPS細胞の作製に使用される遺伝子の少なくとも一部は、ヒトES細胞を用いて選び出されたものだからである。勿論、そのような可能性は低いと信じるし、あってはならないと考えるが。

いずれにしても、iPS細胞は安全性確保の面でまだまだ臨床応用へのハードルは高い。一方、ヒトES細胞を用いた移植医療は、米国で既に臨床試験に入っており、英国でも近く試験が開始される。Thomson博士によるヒトES細胞の樹立から十数年を経て、いよいよES細胞医療が結実しようとしている。今回の判決を「人間の尊厳」の勝利と讃えることを非難するつもりはないが、移植を必要とする患者の「生きる尊厳」を妨げることだけはないよう願う次第である。

 

(掲載日 2012年3月5日)