判例コラム

 

第166回 Nash v. Lathrop, 142 Mass. 29, 6 N. E. 559 (1886)

成城大学法学部教授
成田 博

1886年、マサチューセッツ州において、Nash v. Lathropなる判決が下された(出典は、142 Mass. 29, 6 N. E. 559 (1886) である)。原告はDaily Law Recordなる日刊紙を発行していたJoseph Nash、被告はマサチューセッツ州のReporter of Decisions[判例集編纂官]John Lathropであった。Nashの訴えは単純で、マサチューセッツ州の判例を閲覧し、これをコピーしたい、ということであった。もちろん、それをDaily Law Recordに掲載することが目的であった。ところが、これをLathropが拒絶したことから、その職務の執行を求めて訴え(a petition for a mandamus)を提起したのである。

NashのDaily Law Recordが創刊されたのは1884年のことであるが、その翌年の1885年、ほぼ時期を同じくしてマサチューセッツ州に関わる3つの判例集が登場し、状況が一変する。まず、7月1日、Lawyers’ Co-operative Publishing CompanyがNew England Reporterの創刊を発表した。同じ月の11日には、ニュー・ヨーク州オルバニィのWilliam Gould, Jr., and Co. がEastern Reporterの刊行を発表する。そして、7月17日には、West Publishing CompanyがNortheastern Reporterを刊行し、まさに熾烈な戦いが展開しようとしていた。実際、判例集には、WestとLawyers’の名前が出てくる。

このとき既にマサチューセッツ州にも公式判例集があった。その当時、公式判例集Massachusetts Reportsを刊行していたのは、地元ボストンに拠点を置くリトル=ブラウン(Little, Brown & Co.)であった。1837年創業の、言わずと知れた老舗出版社である。しかし、これだけ判例集が乱立すれば、公式判例集の売り上げも落ちることになる。そのため、Lathropは、リトル=ブラウンの意向を汲んで、判例の閲覧を拒絶したのである。これは筆者の推測ではない。判例集に、“at the request of said Little, Brown & Co.”云々と、はっきり書いてある。

判例そのものが「公有」であることは1834年のWheaton v. Peters判決(33 U.S. (8 Pet.) 591)によって確認されていた。しかし、州政府が或るひとつの出版社と契約を結び、そこに判例集刊行の排他的権利を与えておきながら、これを無視して判例を事前に第三者に渡すということになれば、公式判例集を刊行する会社は打撃を蒙ることになる。そのため、公式判例集刊行前に判例を公表することには強い抵抗があり、マサチューセッツ州の南隣のコネチカット州では、それでは州に契約を破れといっているようなものだといって、そうした訴えを認めなかった(Gould v. Banks, 53 Conn. 415, 2 A. 886 (1885))。

しかし、マサチューセッツ州では、Nash v. Lathrop判決において、Morton裁判官【=マサチューセッツ州最高裁判所長官】が、リトル=ブラウンに出版についての排他的権利を与えたことは確かだが、だからといって、判例集を刊行するまで判例を国民一般から遠ざけて置く権利まで同社に与えたわけではない、と判示して、コネチカット州とは全く逆の結論を下した。

こうしてNashは勝訴したのであるが、Nashの新聞は、その後、どうなったのだろうか。 Frederick C. Hicks, Materials and Methods of Legal Research (Third Revised Edition, 1942) の525頁を見ると、遺憾ながら、これは、1887年1月3日刊行の第5巻第76号をもって終わったとある。そればかりか、Lawyers’のNew England Reporterも GouldのEastern Reporter も廃刊となった。今に至るも存在するのは、公式判例集を別にすれば、WestのNortheastern Reporterだけである。それでも、こうした訴訟を通して判例集刊行の実質的自由への扉が少しずつこじ開けられてきたという事実は厳然として残る。

(掲載日 2011年10月24日)

» 判例コラムアーカイブ一覧