成城大学法学資料室
隈本 守
しばらく前のことになるが、学部OBの利用者から「日米同盟」について、「いつから日米同盟になったのかについて資料が見たい」との依頼があった。「同盟」というと日独伊三国同盟などが想起されるが、この三国同盟は「日本国、独逸国及伊太利国間三国条約(昭和15年・条約第9号)」という実質的な「同盟条約」によるものとされる。これを日米同盟についてみると「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(昭和35年6月23日条約第6号) (日米新安保条約)」がその基点(中核)となるものと言われている。しかしここで「日本とアメリカは、安保条約は締結しているが日米同盟にはなっていなかったのではないか」という人も多いのではなかろうか。今回の利用者の資料調べの発端もここにあったようである。そこで日米同盟については「新安保条約を三国同盟のような同盟条約とは捉えにくい」との立場に立って、その後の「事実関係その他の要因」から同盟関係となったとして、この経緯に関する資料を探すこととした。まず、そのときの資料を通して日米同盟の経緯を概観してみたい。
新安保条約調印直後の昭和35年1月24日付朝日新聞12版2頁において、北京で「日米軍事同盟に反対し、日本国民の独立・民主・平和・中立をめざす(中略)集会」が開催されたとの報道がある。新安保条約そのものから日米軍事同盟となると認識するものもあることになる。他方1981年5月の日米首脳会談において時の鈴木首相は「日米同盟最重視」を表明しつつも「軍事同盟ではない」とし、同盟の内容、性格には認識に幅があるとしていた。これが1996年4月17日の日米安全保障共同宣言では冷戦後のアジア太平洋地域でのアメリカ軍の意義が確認され、これに伴うものとして日本の努力、自衛隊とアメリカ軍の協力が確認された。そして1997年9月23日、日米安全保障協議委員会(2+2)共同発表「防衛指針」は、当初の自衛隊の目的範囲を超えて周辺の事態にも対応することが盛り込まれたとして「日米安保条約の枠を超える内容を含むもの」といわれた。この新指針により周辺事態安全確保法(平成11年5月28日法律第60号)、日米物品役務相互提供協定(平成8年締結)、自衛隊法の改正等が行われ、日本周辺のみならず地球規模でのアメリカ軍と自衛隊の協力が始められた。この後、小泉政権時代になると「地域及び世界における共通の戦略目標を達成するため、国際的な安全保障環境を改善する上での二国間協力は、同盟の重要な要素」(2005年10月29日の2+2発表)とされ、同盟が目に見える形で進められるようになったとされている。
このように見てくると共同宣言や2+2共同発表・防衛指針などの方が、先の条約、関連法令以上に資料の中核、言い換えれば日米同盟の実体となっているように思えた。しかし、これらの外交・行政にかかる文書・資料は、条約や法律と違い、その検討経過、結果がどのように公開されているのか、公的情報ではわかりにくい。同盟の資料として条約を変質させたといわれるほど大きな意味を持つ文書・資料については、外務省ホームページの情報に限らず、「日本外交文書デジタルアーカイブ」や「外務省外交記録公開」(現在は昔の情報のみ公開されている)等のデータベースに最近の情報も含めるなど、もう少し調べやすく、判りやすくならないものだろうか。このコラムを書くにあたって、改めて日米同盟の経緯、関係資料を探したとき、アメリカ国務省のホームページでCRS(Congressional Research Service)のレポート「The U.S.-Japan Alliance」by Emma Chanlett-Avery、2011/1/18(http://fpc.state.gov/documents/organization/155561.pdf)などを参考にした。これはアメリカのこの種の情報へのアクセスしやすさを示す一例として、日本の資料公開の参考となるように思えた。
日本では「日米関係資料集」細谷他 編(東大出版会)1999が97年迄の資料集として極めて充実しているが、これは有料の私的出版物であった。
(掲載日 2011年2月21日)
次回のコラムは3月7日(月)に掲載いたします。