判例コラム

 

第68回 裁判員の意義を重視して失うものは何か

おおとり総合法律事務所 弁護士
専修大学法科大学院教授 矢澤 曻治

7月11日の朝日新聞の『一審の判断「尊重を」』と題する記事を読み驚愕した。ことは5月に導入された裁判員制度に係わる。裁判員が加わって導いた結論を裁判官だけで審理する控訴審で覆してもいいのか。これが命題となり、東京高裁で刑事事件の裁判長を務める12名の部総括判事全員の意見を反映して書かれた「判例タイムズ」(1296号)での共通認識とは、「一審の判断をできるだけ尊重すべきだ」というのである。蛇足ながら、その理由とは、「控訴審が一審判決へ介入し、破棄や差し戻しを繰り返せば、制度の存在意義が失われかねない」からであるという。

しかしながら、これらの人々の共通認識には、根本的な疑問を覚えざるをえないのである。憲法76条3項を想起されたい。「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法および法律にのみ拘束される」と定めている。何故、高裁の裁判官は、裁判員が介在した一審の判断を特に重視しなければならないのか。裁判員が介在しない判断がなぜ軽視されうるというのか。裁判官が第一審の判断に拘束される理由はあり得ないはずである。裁判をする者は良心に従い、独立して裁判をすべきではないのか。東京高裁部総括判事の共通認識は、この憲法の規定を無視してまで、また、良心を棄てて、独立を断念して裁判員の介在した判断に唯々諾々と追随することをよしとすると読めないか。憲法精神に反しても、こうしなければならないとさせた理由は一体何であろうか。

実務を重ねながら、控訴審で痛感することがある。裁判官は、そもそも控訴理由書を読んできたのだろうかと。初回期日の冒頭で、いきなり弁論終結、判決期日の指定という短絡的で無機質な指揮に戸惑いと怒りを覚えた同僚も多いと思う。この事態がさらに助長されるということである。この度の共通認識の公表は、控訴審とそれに帰属する裁判官の自己否定と言われてもやむを得ないのではあるまいか。審理する前から、『一審の判断「尊重」』の先入・固定観念を共有する控訴審などは無用の長物とならないか。そして、控訴審裁判官も形式的な意味しか持たないことになる。これは、三審制の否定ということでもある。裁判員制度の是非はおくとして、裁判員が関与した裁判を殊更偏重することには理由がない。東京高裁部総括判事の共通認識は、裁判員制度に目と心を奪われて「木を見て森を見ず」、国民のために憲法が保障する裁判官の独立に対する干渉であり、まさしく「角を矯めて牛を殺す」ことになる。

末尾ながら、専修大学今村法律研究室から9月中旬に『冤罪はなぜ起きるかを』(花伝社)の刊行を予定している。本書では、誤判や冤罪の発生原因の究明、裁判員制度の本質などが探究される。請う、ご期待を。

(掲載日 2009年7月20日)

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