早稲田大学名誉教授 鈴木 重勝
訴状、準備書面、陳述書、上訴状などの当事者が提出する書面に限らず、裁判所が作成する判決書、口頭弁論調書、送達文書、訴訟記録まで、電子文書、つまりメールを利用することができるようになった。ドイツの昨今の話しである(2005年)。ところが、そのドイツでは、かっては「記録ニナイモノハ、コノ世ニ存在シナイ」と言われたほどに、書面主義がその確実性・永続性のための長所として絶賛され、300年も続いていたところが、一転、それが、がまんできない短所と評価され、口頭で陳述された事実だけが、判決の基礎とされる口頭主義に取って代わり、しかも、たちどころに「口頭主義狂信教」とか、「口頭主義のファナティズム」と言われるほどに徹底した浸透をみることになった。
そして、それをそっくり模倣したのが日本である。ところが、現在、その日本でも、最初の期日には「訴状記載のとおり!」、あるいは「答弁書記載のとおりですね?」と聞かれて「そうです!」と答えれば、その記載内容は、細大漏らさず、口頭で陳述したことになる。それどころか「弁論準備手続の結果を陳述します」と陳述すれば、弁論準備手続の内容が一挙に口頭弁論に上程されるのは、まだしも、控訴審において当事者の一方が「一審結果を陳述しまぁす」と言えば、一審の弁論、証拠調べ、中間的裁判などのすべてが、控訴審の資料とされることになる。
しかしながら、それとは反対に、続行期日のために、どのような詳細な事実や証拠の申出を記載した準備書面を提出しておいても、欠席すれば、実際には、口頭で陳述されていないから、判決資料とされることはない。ところが、全く同じ場面で、口頭弁論に出頭さえすれば、目をつぶって「準備書面に記載のとおり!」のひとことで、その記載内容のすべては、口頭陳述されたことになる。つまり、身体がそこに居合わせて、肉声で「陳述しまぁす」と発声しなければ、その事実は判決の資料とされることはない。
それでは、もしも、このとき、法廷に電話やテレビが設置されていて(170条3項、176条3項)、あるいはパソコンの拡大画面で、欠席したものが「準備書面に記載のとおり!」と伝達すれば、提出しておいた準備書面の記載内容は判決の基礎となることはないのか?法廷に居合わせなければならないことが、本人の意思確認のためではないことは、最初の期日に欠席する当事者の提出した書面が陳述擬制されるところから、明らかである。
肉声の陳述が不可欠だというのは、それに代わる電気機器のない19世紀の終わりの頃のやむを得ない審理原則の要求だったのではないか。そして、判決手続きで、口頭弁論を『必要的』だとする原則が確立されたのは、裁判所の任意の裁量で口頭弁論をしたり、しなかったりする中途半端では、口頭主義の長所を確実に活かせないために、ルールとして遵守させる方便だったのではないか。だから、その口頭主義は、絵に描いたような、形骸化のない口頭陳述を予定していたはずだ。しかし、都合により、まず、ドイツで当事者の同意があれば、口頭弁論を行わなくても判決ができることになり、そして、電子文書でも重大な訴訟行為がなされるまでになっている(日本でも、民訴132条の10、規則3条の2)。そこで、現行の必要的口頭弁論の原則を廃止し、電子文書を基本として、任意的口頭弁論がそれを補うように、とって代えたらどうか。口頭主義の長所は、すべて、任意的口頭弁論で活かされる。
(掲載日 2008年8月11日)