判例コラム

 

第21回 「一枚岩」をめぐる誤解と理想

早稲田大学大学院法務研究科(法科大学院)
教授・弁護士 浜辺 陽一郎

日本の組織は、「一枚岩」を好む。確かに、組織の中がバラバラでは、勝利は覚束ない。やはり組織は一枚岩であってこそ、難局を乗り切っていける。しかし、それが高じて、何が何でも「一枚岩」のような体裁を取り繕うようになると、本末転倒であるばかりか、何のために「一枚岩」を維持しようとしているのか、訳が分からなくなってくる。そのような感覚の人たちが、日本の企業社会においては決して少なくない。

例えば、さまざまな組織の中で会議をしたとしよう。その議事録に反対意見を書くか書かないか、あるいはどの程度、書くかといったことで対立する光景が見られる。これは反対意見を記載すると、何か問題があったことを認識しながら事を進めるような形が残ってしまうことを嫌ってのことなのだろうが、要するにそれでは「一枚岩」にならないので、それを嫌がるという心理が働いている。

しかし、会議において、多角的に検討がなされ、反対意見もあったけれども、最終的に一つの結論が出たというのであれば、その反対意見を記録に残しておくことは、より深い検討をした証拠としては好ましいはずである。それにもかかわらず、日本の組織ではしばしば異論があったこと自体を、何か好ましくないもののように感じてしまうのは、もっぱら情緒的な感覚に由来する。多角的な検討をしていると、「何やら揉めている」と受け取られ、最初から最後まで直線的に決まることを潔く、美しいと感じるのが、日本人の習性なのかもしれない。

コンプライアンスや内部統制の推進という場面でも、何か問題があることを指摘すると、KYだとか、協調を乱すヤツということで、イヤな顔をする担当者がいる。しかし、そういうことでは、問題提起も、その改善ということも覚束ない。こうした感覚が残っている場合には、もう一度、基礎からコンプライアンスの基本を勉強しなおす必要がある。

もちろん、本当に回答しにくい疑問や問題提起もあって、そうした異論自体を消してしまいたいという衝動に駆られる気持ちは分からなくもない。しかし、その場合には、なおさらのこと、深く考えて、それを克服する議論をしたうえで、「一枚岩」にまとめていく必要がある。そうでなければ、表面を取り繕うだけで、根本的な問題を解決しないまま、見切り発車をしているだけになってしまう。

現代のように価値観が多様化し、利害関係が複雑化してくると、単純に割り切れないことも多いし、最終的な結論まで様々な紆余曲折があるものである。それが当たり前であり、そうでない直線的な結論の出し方はかえって危ないと思うべきなのである。

本当に理想的な「一枚岩」とは、どんなプロセスを経ても、その最終的な目標を共有して、組織として総力を挙げる態勢を意味するはずだ。反対意見や異論をきちんと解決する知恵を搾るべきであり、それを乗り越えるプロセスを大切にする心がけが重要である。

(掲載日 2008年8月4日)

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