第262号 絶滅危惧種とされる「教唆犯」は、絶滅することはない
~最1小決令和3年6月9日-強盗致傷、犯人隠避教唆、犯人蔵匿教唆被告事件※1~
文献番号 2022WLJCC014
東京都立大学 名誉教授
前田 雅英
Ⅰ 判例のポイント
共犯の本質をめぐる共犯従属性説と共犯独立性説の争いは、刑法解釈論の中心論点であった。具体的には、例えば殺人を唆した場合に、正犯者が実行に着手しなくとも殺人教唆(未遂)の成立を認める独立性説と、それを否定する従属性説の対立である。しかし、このような議論は、「机上」のものにすぎない。なぜなら、司法統計によれば、教唆犯の有罪人員は、ほとんど存在しないからである(前田雅英『刑法総論講義〔第2版〕』(1994)434頁)。
教唆の実態は、最近ようやく学界でも共有されるようになってきた。松澤教授が「教唆犯の処罰は事実上消滅したといってよい」とされたことが大きかったが(松澤伸「教唆犯と共謀共同正犯の一考察―いわゆる「間接正犯と教唆犯の錯誤」を切り口として―」Law & Practice 4号(2010)99頁)、佐伯教授も「絶滅危惧種としての教唆犯」という論文を公表された(山口厚ほか編『西田典之先生献呈論文集』(2017)171頁。さらに、それに先行して1999年に大塚仁ほか編『大コンメンタール刑法〔第2版〕第5巻』(445頁)でも指摘されていた)。現実の犯罪現象を踏まえた刑法解釈においては、教唆犯が現実の刑事司法の中で、ほとんど存在しないという事実は、「教唆の処罰根拠論」はもとより、共謀共同正犯論をはじめとした共犯論全体にとって、非常に重要な前提事実である。
しかも、教唆犯は、少ないのみならず、特定の犯罪に限られている。本件最高裁判例が対象とした犯人隠避罪や証拠隠滅罪が過半数を占めるのである。だから「絶滅危惧種」と呼ばれる面があるのだが、逆に、本決定(多数意見)の存在は、「教唆犯が絶滅しない理由」を示している。そこに、判例の「現実的共犯理解」の本音が読み取れるように思われる。
Ⅱ 事実の概要
- 1 本件は、強盗傷人事件の犯人として捜査中であった被告人Xが、逮捕を免れる目的で、そのことを知っているWに対し、自己を匿うことを依頼し、Wにその旨を決意させて、O府からK県内のD方まで自動車でXを運搬するなどさせた上、約5時間D方にXを滞在させて犯人隠避及び蔵匿を教唆したとされた事案である。
- 2 第1審は刑法103条の教唆罪に当たるとし、強盗傷人の事実と併合し、Xを懲役3年8月に処した。これに対し、X側は、犯人自身による隠避・蔵匿行為は処罰の対象とされておらず、その理由は、期待可能性の欠如にあると解されるから、それよりも弱い関与形態である教唆の場合についても同様に期待可能性がないものとして犯罪の成立を否定すべきであると主張して控訴した。
- 3 これに対し、原審大阪高裁は、犯人自身による隠避・蔵匿行為が処罰されない理由については、犯人の刑事手続上の当事者性等を考慮して政策的に不問に付されているものと考えられ、他人に犯罪の意思を形成させてこれを実行させた場合まで不問に付する理由は、前記当事者性等を踏まえても、見出すことができない。この点に関する最高裁判所の判例(最2小決昭和35年7月18日(刑集14-9-1189)等)は変更されるべきであるとはいえないとして控訴を棄却した。
Ⅲ 判旨
最高裁は、弁護人の上告に対し、その趣意は単なる法令違反、量刑不当の主張であって、刑訴法405条の上告理由に当たらないとし、上告を棄却した。
そして「なお、犯人が他人を教唆して自己を蔵匿させ又は隠避させたときは、刑法103条の罪の教唆犯が成立すると解するのが相当である(最高裁昭和35年(あ)第98号同年7月18日第二小法廷決定・刑集14巻9号1189頁参照)。被告人について同条の罪の教唆犯の成立を認めた第1審判決を是認した原判断は正当である」と判示した。
これに対して、以下の山口裁判官の反対意見が付されている。
「私は、被告人に犯人隠避・蔵匿罪の教唆犯の成立を認めることは相当でないと考える。
刑法103条は、罰金以上の刑に当たる罪を犯した者(以下「犯人」という。)が自ら行う蔵匿・隠避行為を処罰の対象としていない。それは、犯人が自ら逃げ隠れしても「蔵匿」したとはいわないし、「隠避させた」という要件は犯人隠避罪に該当する行為を行う者が犯人以外の者であることを前提としていると理解できるからである。このように、犯人による自己蔵匿・隠避行為は同条が定める構成要件に該当していない。この理由として、原判決のように、それらの行為も同条の規定が保護する刑事司法作用に侵害を与え得るものではあるものの、犯人の刑事手続における当事者性を考慮して政策的に処罰を限定したものであるなどと説明されることがあるが、このような処罰の政策的な限定を理論的に表現したものが、「犯人には期待可能性が認められない。」とする説明である。
当審判例は、犯人が他人を教唆して、自らを蔵匿・隠避させた場合は、処罰を限定する上記立法政策の射程外であり、教唆犯として処罰の対象となるとしてきた。
それを支える根拠・理由として幾つかのことが指摘されているが、犯人が一人で逃げ隠れするより、他人を巻き込んだ方が法益侵害性が高まるとの指摘がされることがある。このこと自体には理由があると考えられるが、他人の関与により高められた法益侵害性は、教唆された正犯者を処罰することによって対応し得るものであり、法益侵害性の高まりから犯人を教唆犯として処罰すべきことが直ちに導かれるわけではない。結局、正犯としてではなく、教唆者としては犯人を処罰の対象とし得ると解することは、「正犯としては処罰できないが、教唆犯としては処罰できる」ことを認めるものであり、この背後には、「正犯は罪を犯したことを理由として処罰され、教唆犯は犯罪者を生み出したことを理由として処罰される。」といういわゆる責任共犯論の考え方が含まれ、犯罪の成否を左右する極めて重要な意義がそれに与えられているように思われる。このような共犯理解は、他人を巻き込んだことを独自の犯罪性として捉え、正犯と教唆犯とで犯罪としての性格に重要な差異を認めるものであり、相当な理解とはいえないであろう。なぜなら、正犯も教唆犯も、犯罪結果(法益侵害)と因果性を持つがゆえに処罰されるという意味で同質の犯罪であると解されるからである。このような共犯理解によれば、正犯が処罰されないのに、それよりも因果性が間接的で弱く、それゆえ犯罪性が相対的に軽い関与形態である教唆犯は処罰されると解するのは背理であるといわざるを得ない。
以上から、私は、犯人による犯人蔵匿・隠避罪の教唆犯の成立は否定されるべきだと考えるものである。」
Ⅳ コメント
- 1 戦後の司法統計上、通常第1審の有罪人員は、総計3,163,593人であるが、その内、複数が関与したもの(共同正犯(被教唆正犯、被幇助正犯を含む)、教唆犯、幇助犯)の合計は、847,591人である※2。その内、共同正犯が813,577人、教唆犯が2,160人、幇助犯が14,847人なのである。
教唆犯は、年平均43人に過ぎず、複数関与事犯の0.25%に過ぎない。これに対し、共同正犯は98.0%、幇助は1.75%存在する。その意味で、教唆犯を「絶滅危惧種」とするのは「的を射た指摘」といってよい。しかし、絶滅することはないように思われるのである。少ないなりに、コンスタントに存在し続けているからである。
ここで重要なのは、前述のように、数少ない教唆犯が、特定の犯罪、具体的には犯人蔵匿・証拠隠滅罪に集中しているという事実である。最近でも、平成元年から10年までの教唆犯有罪人員は、232人であるが、その内148人が犯人蔵匿・証拠隠滅罪の教唆なのである。そのような結果が生じる理由は、犯人自身が唆した場合に本罪の主体になり得ないという点にある。日本では、オウムサリン事件のように、実行を命じた行為も共謀共同正犯とされるが、刑法103条の場合、犯人による隠避の働きかけを共同「正犯」とすることは困難なので、処罰するとすれば、教唆犯の成立を認めざるを得ないのである。ただ、「犯人自身の隠避教唆は無罪とすべき」という学説も有力である。
判例が無罪説を採用すれば、「教唆犯の絶滅」が到来するかも知れない。しかし、本件最1小決令和3年6月9日の判示の仕方は、教唆犯の絶滅があり得ないことを示しているように見えるのである。
- 2 犯人自身が身を隠しても不可罰であるが、犯人が他人に自己を匿わせた場合は、犯人蔵匿・隠避罪の教唆犯が成立するのかが、学説上対立してきた※3。ただ、学説の対立に比し、判例は「教唆犯が成立する」として、その判示内容は全く揺らいでいない※4。その意味で、本決定は、犯人隠避罪に関し、肯定説(教唆犯成立説)を踏襲したものに過ぎない。ただ、従来の判例と対立する学説が、反対意見として付されているため、注目を集めることになった。成立説の多数意見と、否定説の反対意見の対立の構図は、明治以来の判例と学説の対立全体の縮図といってもよい。
- 3 この問題に関する先例として最も重要なのが、大判昭和8年10月18日(刑集12-1820)である※5。県会議員である被告人Xが、自ら仕掛けた据銃により女中に重傷(後に死亡)を負わせたが、このことが公になり刑罰を科されれば堪え難き不面目になると苦慮し、他人に、「Xの犠牲となり事件の責任を引受けてくれ」と依頼して、銃を仕掛けて被害者を死亡させた旨の虚偽の申告をさせ、罰金の略式命令を確定させたという犯人隠避の事案で、犯人隠避教唆罪の成立を認めた。犯人自身の単なる隠避行為は、防御の自由に属するが、他人を教唆して自己を隠避させるに至れば防御の濫用に属し、法律の放任行為として干渉せざる防御の範囲を逸脱するとしたのである。その結論は、その後100年近く維持され続けている。ここであらためて確認しておかねばならないのは、刑法103条が犯人の処罰を予定していない法意は、「推奨すべき行為」だからではなく、法律の放任行為として法は干渉しないとしただけだという解釈である。
最高裁も、最2小決昭和35年7月18日(刑集14-9-1189)が、自動車事故の身代わり犯人を仕立てた行為について、犯人隠避罪の教唆犯が成立するものと解するを相当として、教唆犯成立の論拠を示すことなく、大判昭和8年10月18日を踏襲した※6。
- 4 かつては、新派対旧派、共犯独立性説対共犯従属性説の対立も重視されていたが※7、本問題においては、昭和初期から一貫して、条文構造を前提に、そこから素直に無罪の結論を導くか、犯人の隠避教唆の中に「情状」の重いものを認め、教唆犯の成立を認める余地を認めるかの対立が軸となってきた。前者を代表するのが「被告人による犯人隠避の教唆は、正犯として犯罪が成立しない以上、当然教唆犯としても成立しない」(大場茂馬『刑法各論〔第8版〕下巻』(1914)847頁、839頁)という説である。それを理論化して、犯人に、逃げ隠れしないという期待をかけることが不可能であるとする以上、人を教唆して隠避する行為も期待できないとする説といってもよい(滝川幸辰『刑法各論』(1951)281頁)※8。
これに対し、犯人が単独で自己を隠匿することは恕すべしとしても、「他人をして故意に犯人蔵匿又は証憑湮滅の罪を犯さしめることになると、それは情状に於て同一ではない」とする説が対立する(小野清一郎『新訂 刑法講義各論』(1950)36頁)。他人に犯人蔵匿の罪を犯させてまでその目的を遂げるのは、自ら犯す場合とは情状が違うとし、「教唆者が自分に関することであるとはいえ、教唆犯の成立を否定するだけの根拠はない」とする(団藤重光『刑法綱要各論〔第3版〕』(1990)90頁)※9。
- 5 対立の核心は、「他人に犯人隠避の罪を犯させてまでその目的を遂げるのは、自ら犯す場合とは犯情が異なるか」という点にある。「正犯として処罰されない以上、軽い類型である教唆犯として処罰されない」という「自然な解釈」に対し、「教唆の方が犯情が重い場合があり得るので、犯人自身の隠避教唆を一律に無罪とすることができない」と解するかである。
「教唆は正犯より軽い」という命題を、誤りだとする必要は無い。ただ少なくとも、「期待可能性は具体的な行為の態様についての法的評価であるから、共犯は正犯より軽いということだけでその立場を根拠づけることには無理があろう」(中森喜彦『刑法各論〔第4版〕』(2015)293頁)。この30年来、「共謀共同正犯」が、学説上もほぼ定着してきた日本では(前田雅英『刑法総論講義〔第7版〕』(2019)347頁)、直接実行行為に関与した者より、「犯罪を計画し唆す者の罪質を重く見るべき場合」がかなり存在することの認識が、広く共有されるようになったといってよい※10 ※11。
- 6 「犯人自身の隠避教唆は、すべて処罰すべきである」ということではない。構成要件該当性判断においても、具体的事実を踏まえた規範的評価が加えられる※12。立件、起訴の段階でスクリーニングがなされるのも、当然である。
ただ、犯人自身の教唆を認めた判例には「県会議員が自ら仕掛けた据銃により女中を死亡させた犯罪を隱避しようと、身代わり犯人を仕立てた事案(大判昭和8年10月18日)」に代表されるように、影響力を行使し得る者に対して身代わり犯人になるよう命じたり依頼した事案が目立つ※13。少なくとも、これらの教唆事案では、「刑事司法作用」という国家法益の侵害が大きいし、強い責任非難も向け得ることは疑いない(前田雅英『刑法各論講義〔第7版〕』(2020)478頁)。判例の実質的基準からすれば、共謀共同正犯として処断すべきであるが、条文構造上、教唆犯とせざるを得なかったのである。このような事案に関し、「類型的に教唆を軽く見るべきだから、犯人による刑法103条の教唆行為を罰すべきでない」という主張を、判例が認めないのは当然であると思われる。
- 7 この点、本件反対意見も「犯人が一人で逃げ隠れするより、他人を巻き込んだ方が法益侵害性が高まるとの指摘がされることがある。このこと自体には理由があると考えられる」とした。ただ、「他人の関与により高められた法益侵害性は、教唆された正犯者を処罰することによって対応し得るものであり、法益侵害性の高まりから犯人を教唆犯として処罰すべきことが直ちに導かれるわけではない」とするのである。
しかし、このような反論は、「身代わり犯人になることを強く慫慂したような悪質な事案」に直面した裁判官には、説得力を有しない。「他人の犠牲において即ち他人を教唆して犯罪に陥入れて自らの犯した犯罪の発覚を合法的に防止することを許すが如きこととなり、かような解釈は到底採用の余地がない」との実務家の「心情吐露」は(前掲注6東京高判昭和38年1月28日)、現在も説得性が高いといえよう。
- 8 「犯人自身による隠避教唆行為」の問題は、日本人の規範的評価をやや重視する判例と、明治期に導入された欧米型の刑法についての「母国」の解釈をより重視する学説の、複雑なもつれ現象の典型例であり、共謀共同正犯論の定着の流れとも密接に結びつく。
日本では、「犯行の計画をするなど、犯罪の中心にいる者」が正犯で、「直接」実行したか否かのみで正犯か否かを決定すべきでないという考え方が存在してきた。その結果として、教唆のほとんどの部分が、共謀共同正犯で処理されることになった※14。しかし、犯人蔵匿隠避罪等は、犯人(被告人)が行った場合の処罰を排除しており、共同正犯とすることに無理があるので、「やむなく」教唆で処理してきたように思われる。
もちろん、大場博士、滝川博士以来の「正犯として犯罪が成立しない以上、当然教唆犯としても成立しない」との主張は、それだけ見れば、ごく自然のものである。しかし、具体的事案を踏まえた規範的評価に基づかざるを得ない判例は、一貫して成立説を採用してきたし、今後も採用し続けるように思われる。
- 9 本決定は、判例の流れに沿う多数意見と、反対意見に明示された不成立説の学説の対立構造を、あらためて浮き彫りにすることになった。ただ、100年に及ぶ判例の流れの中に位置づけてみると、成立説の「実務上の揺るぎなさ」を示すことにもなったように思われる。今回は「反対意見」であり、「方向」は真逆であるが、判例の規範的評価を学説に浸透させていくという意味では、共謀共同正犯を定着させた最1小決昭和57年7月16日(刑集36-6-695、Westlaw Japan文献番号1982WLJPCA07160009)の補足意見と、結果的に類似した役割を果たすことになるとみるのも、強ち、穿ちすぎたとはいえないように思われる。
(掲載日 2022年5月25日)