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文献番号 2019WLJCC027
青山学院大学法務研究科(法科大学院) 教授※2
弁護士法人 早稲田大学リーガル・クリニック 弁護士※3
浜辺 陽一郎
1 はじめに
今回取り上げる事件は、東証第1部上場の日本板硝子の公募増資に絡むインサイダー取引疑惑に関して、シンガポールのファンド運用会社に対する804万円の課徴金納付命令の処分が取り消された東京地方裁判所令和元年5月30日判決のケース(以下「本件」という。)である。
公募増資にかかるインサイダー取引に対する課徴金納付命令が取り消された事例としては、N證券インサイダー取引事件※4(以下「N證券事件」という。)があった。本件は、それに続く2件目の金融庁敗訴ケースである※5。
課徴金の趣旨は、違法なインサイダー取引で得た利益を剥奪する目的だが、インサイダー取引で有罪か無罪かは、その将来のキャリアを恐らく大きく左右するものでもあろうから、裁判所がかなり厳格な立証を求めたことは、それなりに理解できる。
しかし、どのようにインサイダー取引の認定がされるかは、ケース・バイ・ケースである。本件から、安易に「こうすればインサイダー取引も無罪だ」などと考えるのは軽率である。このケースでも、この判決を勝ち取るためにかかった弁護士費用等のコストを考えれば、インサイダー取引が疑われるようなことを如何に回避するかということこそを、教訓として学ぶべきだろう。
2 事案の概要
本件の原告は、シンガポール共和国に設立された投資運用会社で、投資一任契約に基づいて資産運用を行っていた。
平成22年7月27日、J証券株式会社(以下「J証券」という。)のセールストレーダーCから、原告のファンドマネージャーA及びBが、日本板硝子の公募増資に関する情報を聞きつけ、その公表前の同日から同年8月24日までの約1か月間にわたり、日本板硝子株を空売りする等の売付けを行った。かくして、増資発表で株価が下がる前に、高値で売って利益を得た形となった。
これが、いわゆるインサイダー取引の禁止を定める金融商品取引法(以下「金商法」という。)166条3項(平成23年法律第49号による改正前のもの)に違反するとして、証券取引等監視委員会(以下「監視委員会」という。)の勧告及び金商法所定の審判手続(平成25年度(判)第29号金融商品取引法違反審判事件)を経て、金融庁長官(処分行政庁)から、平成26年12月26日付けで課徴金804万円を国庫に納付することを命ずる旨の命令(以下「本件処分」という。)を受けた※6。
これに対して、原告は、①抗告訴訟として、主位的に本件処分の無効確認を求め、予備的に本件処分の取消しを求め、また②被告に対し、国家賠償法に基づき、慰謝料300万円及びこれに対する遅延損害金の支払を求めた※7。ただ、国賠に基づく請求は棄却された。本稿では、①の本件処分の取消しの点に絞ってコメントする。
3 争点に対する判断
本件では、日本板硝子の財務状況等から、平成22年7月中旬頃までに、同年8月5日頃に日本板硝子による公募増資の実施が公表される旨の市場関係者間の噂があり、当時の株式市場の状況分析等から、そういう推測ができる状況だった。
裁判所は、「Cは、平成22年5月に、前任者の顧客であった原告を引き継いだばかりであり、シンガポールに在住するAとは1回しか会う機会がなく」、・・・「J証券にとって、原告は顧客の重要度として最下位に位置付けられており、AがCから特別な情報を得ることが期待できる立場にあったともいえない」等の事実に着目し、「日本板硝子株に係るフロー照会※8に関し特に特徴的な目立った動きがあったとも認められないから、その頃に日本板硝子株に係るフロー照会がされたというだけでは、本件公募増資の実施について確実なものであると裏付けられたということはできない。・・・Cが、日本板硝子の公募増資に関する自らの推測や市場関係者の間における噂等の情報に加えて、契約担当役員等との直接又は間接の職務上の関わり合いを通じて得られた情報により、本件重要事実を知るに至ったとは認められない」から、本件重要事実をその職務に関し知ったと認めることはできない」と判断した。
さらに、仮にそうでないとしても、すなわち、Cが本件公募増資に係る本件重要事実を「その職務に関して知った」と認めたとしても、原告が有罪であるためには、CがAらに当該情報を伝達していた必要がある。この点で、伝達した証拠として問題となったのが、CとAの間で平成22年7月27日に行われたチャット(以下「本件チャット」という。)であった。
ところが、その内容は、「Cが日本板硝子株について同年8月は注目に値する」旨の情報を記載しているのみで、公募増資については何も触れられておらず、その記載内容からは単なる取引推奨の趣旨のようにしか読めなかった。加えて、「Aが本件チャット後に行った空売りは当時の株式市場の動向等を踏まえてAが自ら判断して行った取引として不自然なものではないのに対し、Aが空売り後にこれを買い戻すべきかどうか迷っていたことや、本件公表前に空売りした株式を買い戻して200万株を超える売り建玉を全て解消したことは、本件重要事実の伝達を受けた者の行動として不自然である」と指摘し、「本件チャットがされるまでに、CとAが、未公表の公募増資に関する情報を暗黙のうちに伝えられる共通認識を醸成することができるような関係にあったともいえず、実際に両者の間に交わされたチャットを見ても、このような共通認識の醸成はうかがわれないことなども併せ考慮すると、Cが、本件チャット(又はその後の電話)によって、本件重要事実をAに伝達したと認めることはできない。」と判断した。
結局、本件各取引が原告の計算により行われたか否かについて判断するまでもなく、違法であって、取り消すべきものといわざるを得ないとして、令和元年5月30日、本件処分の取消等請求事件では、本件処分を取り消す判決が出された。その後、同年6月14日、同判決は確定し、本件処分は取り消された※9。
4 若干のコメント
本件判決を読むと、本件はやや無理筋だったのではないかという気がするかもしれない。勝訴した原告側代理人の弁護士は、判決後の記者会見で、「優秀なファンドマネジャーほど分析が的確で予想が当たる。だからといってインサイダー情報を得たと疑われるようでは、ファンド業界に萎縮効果が生じる」と指摘したという※10。確かに、そういうケースもあるだろう。予想が当たったというだけで、インサイダー取引の疑惑をかけられるようでは困る。
一方、本件やN證券事件の2つの判決から、インサイダー取引の疑惑をかけられても、無罪になるためのヒントが読み取れるという受け止め方をする向きもあるかもしれない。なるほど、本件と同じような行動を取れば、罪に問われることを逃れやすくなるようにも考えられる。
しかし、インサイダー取引を取り締まる側から考えてみると、本件判決のような見方が、常に認められるとは限らない。もちろん、あくまでも本件は無罪で確定している。そこで、この事件の真相とは別に、本件の事実認定に影響を与えた5つの考慮要素を取り上げて、インサイダー取引を取り締まるために、どういう議論がありうるかを考えてみたい。
(考慮要素1 事実伝達後の取引状況)
本件では、単純に空売りだけをしていたのではなく、あたかも逡巡するかのように、矛盾した取引等も行っていたことを、インサイダー取引を否定する理由としている。N證券事件でも、公募増資に係る重要事実を知った者からその伝達を受ければ、その公表日に至るまで売りが基本の姿勢となり、公募増資の公表後に買い戻すはずだが、売りと買いを繰り返す売買経過自体が重要事実の伝達を受けたものでなかったことを物語っている等と指摘して、インサイダー取引の成立を否定した。
しかし、こうした判断では、インサイダー取引をカモフラージュするための取引を混ぜることによって責任を免れることを許してしまう結果をもたらす恐れがある。例えば、全体として、それなりの利益を得る大きな方向性が認められれば、この点はインサイダー取引を否定する理由にはならないという見方も成立する余地がある。
(考慮要素2 情報伝達の明確性)
日本の最高裁は、インサイダー情報の決定や伝達を形式的かつ厳密な形で認定することを求めているわけではなかったはずである。例えば、日本織物加工株式インサイダー取引事件(弁護士インサイダー取引事件)では、「業務執行を決定する機関」が、当該株式の発行が確実に実行されるとの予測が成り立つことは要しないと解して、一部の株式の譲渡方法に関する問題が最終決着をみていなかったとしても、株式の発行を行うことについて決定したというに妨げないと判断していた※11。
また、最高裁は、村上ファンド事件でも、当時の証券取引法167条2項にいう「公開買付け等を行うことについての決定」をしたといえるか否かの判断において、「公開買付け等の実現可能性があることが具体的に認められることは要しない」と解し※12、別の証券取引法違反被告事件でも、投資判断に影響を及ぼす情報を知りうる立場に立ったことを捉えて、当該重要事実に関する情報を得たものと判断した※13。
ところが、N證券事件で、東京高裁判決は、「複数の断片的な情報には、上場会社等に由来しない法人内部の事実や、重要事実とは関係がないような事実も含み得るものであって、しかもそれを組み合わせることによって認識するというのも、金融商品取引市場に流布する噂、当該上場会社の業績、開示情報、株価の動向、証券アナリストの分析、予測等の外部情報の収集力や分析力といった営業員個人の資質に左右される主観的な推測との区別を曖昧なものとし、客観性、明確性に欠けるものであり、上記の程度の認識をもって「知った」に当たると解することは、法がその禁止の対象とする個々の内部者取引について、内部情報の流通形態ごとにその主体や禁止行為の類型等の構成要件の細目を具体的に規定している趣旨に沿うものとはいえない」と述べる※14。
本件も、N證券事件判決と同じような見方をして、本件チャットだけでは公募増資への直接的な言及が見出し難いとして、婉曲的なやりとりだけから情報を伝達したとは認められないと判断した※15。本件では、他の様々な証拠から、そう認定できたのだろう。
しかし、こうした単純な考え方だけでは、各種の情報を混ぜることで曖昧化することが容易である以上、インサイダー取引を規律することは事実上不可能になるだろう。現実には、あらゆる情報を収集しながら、隠語等を使って巧妙なやり取りを行って、関係者の忙しさ等といった外部の人たちは知りえない特別な情報のやり取りをしようとしているのであって、表面的な言葉の理解だけで判断をするようでは、確信犯を裁くことなどできない。様々な事例の集積に基づいて、裁判所への説得を強めていけば、いくらインサイダー情報のやり取りに多くの雑音を入れても、必ずしもインサイダー取引は否定されないという判断も、将来的にはありうるのではなかろうか。
(考慮要素3 主幹事証券会社としての利益相反的な地位)
本件で、J証券は、日本板硝子から公募増資の計画の概要の説明を受けたグローバルコーディネーター(主幹事証券会社)としての参加を要請され、これを受諾していた。もちろん、通常、株式の引受業務を行う証券会社は、市場の公正性確保の観点から、顧客企業の増資で引受業務を行う部門と、株式販売を行う営業部門との間で情報遮断をするチャイニーズ・ウォールが設けられている。しかし、本件では、それが機能していなかった疑いがあり、監視委は「壁が崩れていた」と睨んでいたようだが、それを証拠で立証することは、まず不可能だろう。
N證券事件でも、N證券が東京電力の主幹事証券会社として公募増資の準備を進めており、その担当者と営業部員とのやり取りが問題とされたが、その高裁判決も、(金融庁は)「N證券の営業員がチャイニーズ・ウォールの脆弱性を利用し、内部情報を取得しようとしてN證券内部の関係者らに積極的に接触し、それによって取得した内部情報を顧客である被控訴人に伝達した悪質な事案であることを強調するが、当時のN證券の内部情報管理体制や営業員の営業姿勢等に問題がないわけではないとしても、法によって禁止され、刑罰や課徴金を課す対象となるのは、内部情報管理体制や営業員の営業姿勢ではなく、飽くまで、法〔筆者注:金商法〕によって規定されている構成要件に該当する内部情報を取得して行った取引でなければならないというべきである」と論じる。
しかし、当局が市場に横行している疑いのあるインサイダー取引を事実上容認するような結果にならないように、チャイニーズ・ウォールが機能していなかったと疑われるような場合には、厳しく対処するという方針を取ることは、一つの合理的なアプローチであるように思われる。
できれば、そうした利益相反の関係にある立場にある者が反証しない限り、推定するといった制度がほしいところだが、刑罰法規で、そこまでの制度を導入することは難しい。そうなると、組織内部でのやりとりを立証して、取り締まるようなことは事実上不可能だ。結局、こうした事実の認定を、原則通りで立証を求めるだけでは、実態と乖離してしまい、経験則に反するような結論を誘発しかねない。
例えば、公募増資の噂があった状況で、特別の人間関係から得られた情報で、ある種の確証を得たような場合、そのうえで、相当な金額を、絶好のタイミングで空売り等をしていた事情があれば、金融庁から疑念を抱かれても仕方がないだろう。
市場に公表されている情報とは別の特別な内部の情報が得られれば、特別に有利な取引ができることになり、市場の公正が害される。わが国における利益相反に対する規律は、まだまだ弱い。チャイニーズ・ウォールをどのように機能させるかは、今後もコンプライアンス上の大きな課題である。
(考慮要素4 顧客の重要度)
本件では、原告が顧客の重要度として最下位に位置付けられていたことを一つの判断の材料としている。しかし、ビジネスの世界における貸し借りは、例えば、それぞれの取引における関係者の長年にわたる取引関係における将来の期待がありさえすれば、情報伝達を行う動機としては、十分ではなかろうか。経済的な欲望からくる動機等は、誰にでも、どこにでも生じうる。そうだとすると、この点を、インサイダー取引を否定するポイントとして過大に評価することは禁物だろう。
(考慮要素5 取引金額の大きさ)
課徴金納付命令が少額ならば、争わないで払ってしまった方が、コストは安く済むし、争っても、裁判所に理解してもらえる保証はなく、行政処分の取消訴訟で勝てる確率はそれほど高くはない。このため、金融庁から「違反者」とされても、泣き寝入りしてしまって、争わない投資家も、かなりいるのではないかとの指摘もある。
これに対して、課徴金の金額が大きい場合には、争うだけの経済的な意義はあるはずだ。ところが、多額の取引をした場合には、「インサイダー取引をしていたから、それだけの多額の取引をしていた」との推認がされやすくなるかもしれない。
ちなみに、N證券事件の場合は、金融コンサルタントが、東京電力が公表した公募増資に関する情報を証券会社営業員から事前に伝えられ、公表前に東京電力株計200株を約44万円で売却したとして、金融庁は、平成25年6月27日付けで原告に課徴金6万円を納付すべき旨の命令を出したが、それは取り消された。これを争う弁護士費用のほうが大きいのに、それを争ったのは、やはり相当な理由があったはずだと見られるような状況といえるかもしれない。
これに対して、同時に問題視されていた別の米国法人は、東京電力株合計3万5000株を合計8051万8900円で売り付けたことが、金商法175条1項1号、166条3項に該当するとされ、課徴金1468万円を納付することを命ずる旨の決定を受けたが、潔く課徴金を収めた。もっとも、本当は冤罪だといいたいところだが、争うコストを回避するための経済的な合理性だけの理由であった可能性もある。
ただ、取引金額が小さければ、インサイダー取引が認定されないというわけではなく、これが決め手となるわけでもない。お金の問題だけでは済まされない人生がかかっているからだ。しかし、経験則からすると、これも無視できる要素とは言い難いのではなかろうか。その点で、例えば、かなり大きな金額の課徴金を取り消すという場合は、かなり深く考える必要がある。
現実的には、金融庁の処分に不服があっても、争うコストを考えて課徴金を収めて終わっているケースも相当あると推測され、そのことが一定の抑止効果をもたらしているという面もある。ほんの一部のケースで課徴金の納付命令が取り消されたとしても、金融庁が専門的な見地からインサイダー取引を十分に認定できるのであれば、今後も裁判所の判断を恐れず、課徴金の処分を重ねていくことには実務上の意義は十分にあるとも考えられる。いずれにしても、疑われる取引の回避が、市場参加者にとってはベターであることに変わりはない。
5 結びに代えて
本件判決は、いわば無罪推定の刑事裁判の原則にしたがって、「Cが本件公募増資に係る本件重要事実をその職務に関して知ったと認めることはできず、また、仮にそうでないとしても、AらがCから本件重要事実の伝達を受けたと認めることもできない」という結論を下した。
ただ、上記の5つの考慮要素については、まだまだ議論すべき問題があり、本件のインサイダー取引無罪で、セーフハーバーの一般化は困難であると考えるべきだ※16。思うに、冤罪を防止することは何よりも重要だという立場も十分に理解できるが、市場にインサイダー取引が横行するような結果を黙認しているわけにはいくまい。むしろ、課徴金の制度は、刑罰とは異なるという考え方から、金融庁の判断を尊重できないか、という疑問も浮かぶ。今後も、当局は、今後の立証には更なる改善が求められるだろうが、連敗に必要以上に萎縮することなく、市場の実態に応じてしっかりとした市場の監視と摘発を重ねていってもらいたい。
その意味で、当局は、事案ごとに、摘発すべきは摘発すべきであって、他方、市場参加者は、インサイダー取引の疑惑を受けることのないように、疑惑を持たれるような接触やアンフェアな情報収集をすることは控えるべきことに変わりはなかろう。それを破った場合、それなりのコストがかかることは、十分に覚悟して然るべきではなかろうか。
(掲載日 2019年10月30日)