判例コラム

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第140号 犯人性を立証するための唯一の証拠が、現場資料について行われたDNA型鑑定である公然わいせつ被疑事件 

~変異精原細胞が出現したことの根拠もないのに、本件現場資料が混合資料である可能性を、合理的な疑いを差し挟む余地のないものとして排除できるか(平成30年5月10日最高裁第一小法廷判決)~

文献番号 2018WLJCC016
専修大学法科大学院教授 弁護士
矢澤 昇治

最高裁第一小法廷(平29年(あ)882号邸宅侵入、公然わいせつ被疑事件)平成30年5月10日判決※1、控訴審大阪高裁(平28(う)1079号)平成29年4月27日判決※2 、第一審大阪地裁堺支部(平27(わ)247号)平成28年9月21日判決※3


【法令の適用】罰条 邸宅侵入の点 刑法130条前段、公然わいせつの点 刑法174条、科刑上一罪の処理 刑法54条1項後段、10条(邸宅侵入と公然わいせつの間には、手段結果の関係があるので、1罪として重い邸宅侵入罪の刑で処断)、刑種の選択 懲役刑を選択、累犯加重 刑法56条1項、57条(累犯前科との関係で再犯)、未決勾留日数算入 刑法21条、訴訟費用の処理 刑事訴訟法181条1項ただし書(不負担)


【参照条文】刑事訴訟法405条、406条、386条、411条、414条

第1 本件公訴事実並びに第一審判決及び控訴審の要旨

 1 本件公訴事実の要旨

  •    本件公訴事実の要旨は、「被告人は、正当な理由がないのに、平成27年2月22日午後9時41分頃、…マンション(以下「本件マンション」という。)に、1階オートロック式の出入口から住人に追従して侵入し、その頃、同マンション1階通路において、不特定多数人が容易に認識し得る状態で、自己の陰茎を露出して手淫し、引き続き、同マンション2階通路において、前同様の状態で、自己の陰茎を露出して手淫した上、射精し、もって公然とわいせつな行為をした」というものである。

 2 第一審判決

  • (1)第一審判決の要旨
  •    第一審は、被告人が本件犯行の犯人であると認定し、被告人を懲役1年に処すると判決した。
     被告人が犯人との同一性を争ったが、第一審判決は、「精液様のもの〔被害者方前通路上から採取したもの〕(以下、この資料を「本件現場資料」という。)は、犯人が本件犯行の際に遺留した精液であり、そのDNA型は被告人に由来するものであって、当該精液が被告人のものであることが認められる。また、被告人が本件犯行の犯人として射精する以外に、被告人の精液が犯行現場に遺留されるような理由は見当たらない。  これらの事情からすると、被告人が本件犯行の犯人であったと認められる」とした。
  • (2)以上に対し、弁護人は、証人C(大阪府警察本部刑事部科学捜査研究所(以下「科捜研」という。)所属、以下、「C鑑定人」ともいう。)による本件現場資料のDNA型鑑定においてはD19S433のローカスで14.2のアリールにピークが出現していないのに、鑑定人F(以下、「鈴木鑑定人」という。)による鑑定では、同ローカスで14.2のアリールにピークが出現していることからすると、本件現場資料には犯人以外の者の細胞が混入している可能性があり、本件現場資料と被告人の口腔内細胞のDNA型が一致しているとは認められない」旨主張した(鑑定人Fとは、大阪医科大学教授鈴木廣一氏である。下線による強調は、筆者矢澤、以下、同様)。
     しかしながら、「鈴木鑑定人はDNA型鑑定を実施する上で十分な知識を有していると認められるところ、鈴木鑑定人は、本件現場資料のDNA鑑定書(職2)において、D19S433のローカスで14.2のアリールにピークが検出された点も考慮した上で、STR型ピークの検出状況から本件現場資料のDNA型が一人分に由来すると考察しており、その内容に特段不合理な点があるとは認められない。そうすると、本件現場資料に犯人以外の者の細胞が混在していたとは認められないというべきであって、弁護人の上記主張は採用できない」。
  • (3)この点に関し、弁護人は、「鈴木鑑定人が証人尋問の際、上記ローカスで14.2のアリールにピークが出現した原因と考察する変異精原細胞の出現可能性に関し、「真実の父子であるという組み合わせを調べたデータでは、何万組かに1件は、Y-STRのローカスの一つで、そのようなことが起こっているという文献はある、あったと記憶はしております。」と供述したことを根拠に、変異精原細胞の出現は「何万組かに1件」という確率でしか生じないものとした上で、このような低い確率でしか生じない原理を具体的な根拠がないまま、本件に当てはめることは合理的とはいえないなどと主張する」。
     しかし、「鈴木鑑定人の上記供述を前提とすると、変異精原細胞によって生じた精子が受精し、当該受精卵が成長して子が出生する割合が「何万組かに1件」程度と考えられるのであって、変異精原細胞が出現する確率自体はそれよりも相応に高いものと考えられる。弁護人の主張は、鈴木鑑定人の供述を誤解するものといわざるを得ず、鈴木鑑定人の判断に合理的な疑問を生じさせるには足りないというべきである」。
     以上から、被告人が本件犯行の犯人であると認定した。

 3 控訴審判決

   大阪高裁は、原判決を破棄し、被告人を無罪であると判決した。理解を深めていただくために、できるだけ判決原文を引用した。

  • (1)控訴趣意の要旨
  •    控訴趣意の要旨は、原判決は、被告人が、原判示の邸宅侵入、公然わいせつを行ったとの事実を認定して、有罪としたが、被告人はそのような行為を行っておらず、無罪であるから、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある、とするものである。
  • (2)原審の経過等
  •    ア 原審において、被告人は、本件犯行を行っておらず、防犯カメラの画像に残された犯人が着用していた帽子や眼鏡は持っていないなどと供述して、犯罪の成立を争った。
    • (ア)本件犯行そのものに関する証拠
       これに対して、本件犯行そのものに関する証拠として、本件犯行を目撃したという本件マンションの住人の警察官調書(原審甲2)、精液様のものが本件マンション2階通路から採取されたこと等を記録した本件マンションの実況見分調書(原審甲5)、上記精液様のものは精液であるとする鑑定書(原審甲7)、犯行状況を撮影した防犯カメラの映像を録画したDVDを添付した捜査報告書(原審甲10)等が取り調べられた。
    • (イ)被告人と犯行を結びつける証拠
      • a 証拠方法
         被告人と犯行を結びつける証拠としては、「被告人の自白や目撃者の犯人識別供述はなく(被告人が犯行直後に犯行を自白した弁解録取書はあるようであるが、検察官が被告人質問中で言及しているだけで、証拠請求はされておらず、また、上記目撃者は犯人の識別供述をしていない。)」、「上記精液様のもののDNA型が被告人のDNA型と一致するとする下記2つの鑑定のみである」。
        • (a)捜査段階に「科捜研」所属のC鑑定人によって行われた上記精液様のもののDNA型鑑定の結果を記載した鑑定書(原審甲7)及び同人の原審公判供述(以下「C鑑定」という。)並びに科捜研所属のDによって行われた被告人の口腔内細胞のDNA型鑑定の結果を記載した鑑定書(原審甲9)及び同人の原審公判供述(以下「D鑑定」という。)
        • (b)原審段階で、「鈴木鑑定人」によって行われた上記精液様のものと被告人の口腔内細胞のDNA型鑑定の結果を記載した鑑定書2通(原審職2、3)及び同人の原審公判供述(以下「鈴木鑑定」という。)
      • b 鑑定の手法及びその結果
         各鑑定の手法及びその結果等は以下のとおりである。
        • (a)C鑑定及びD鑑定
           大阪府堺警察署所属警察官が、本件直後に、本件マンションの2階通路上に貯留していた「本件現場資料」を綿棒(以下「本件綿棒」という。)で採取し、滅菌バッグに封入した上、一旦、同警察署の証拠品係の冷蔵庫に保管し、鑑定のため科捜研に持ち込んだ。
           C鑑定人は、本件綿棒の一部を切り取って精液検査を行い、さらに、残部の一部を切り取って、本件現場資料につき、Identifiler Plus(以下「IDP」という。)により、STR型検査及びアメロゲニン型検査を行った。
           その結果は、15座位のSTR型及びアメロゲニン型の全てについて、D鑑定による被告人の口腔内細胞のそれと一致した
        • (b)鈴木鑑定
           鈴木鑑定人は、本件綿棒の残部を2か所切り取り、一般的な抽出キットと、膣内容を拭った資料(膣スワブ)専用キットを使用して、各別に、本件現場資料につき、DNA抽出処理を行った上、それぞれについてIDPによりSTR型検査及びアメロゲニン型検査を行った。
           その結果は、鈴木鑑定人が別途行った被告人の口腔内細胞についての検査の結果と、14座位のSTR型とアメロゲニン型は一致したものの、D19S433の座位については、本件現場資料のアリール型は「14、15.2、14.2」だったのに対し、被告人の口腔内細胞のそれは「14、15.2」であり、本件現場資料には、被告人の口腔内細胞にはない「14.2」が含まれていた。なお、D鑑定においても、被告人の口腔内細胞のD19S433座位のアリール型は「14、15.2」であり、C鑑定における本件現場資料の同座位のアリール型も同様であって、いずれも「14.2」は含まれていない。
           上記のとおり、鈴木鑑定の検査結果は、D19S433座位のアリール型に関して、本件現場資料にはアリール型「14.2」が含まれるのに対して、被告人の口腔内細胞にはそれが含まれない点で異なっているが、同鑑定では、これは、本件現場資料が生殖細胞であることから、精子のもとになる精原細胞が出来る過程で1反復単位分抜けた変異精原細胞が形成され、それが減数分裂して精子となったことによるものと考えられ、本件現場資料のDNA型は、被告人の口腔内細胞のDNA型と同じと判定されるから、本件現場資料は被告人に由来するといえるとされている。
    • イ 原審弁護人の主張
       原審弁護人は、鈴木鑑定は、本件現場資料のD19S433座位に被告人の口腔内細胞にはないアリール型「14.2」が含まれているのは、精原細胞が出来る過程で1反復単位分抜けた変異精原細胞が形成され、それが減数分裂して精子となったことによるものと考えられると説明しているが、被告人に変異精原細胞が生じていることを裏付ける根拠はなく、鈴木鑑定人の説明によっても、そのようなことが起こるのは真実の父子何万組に1件というのだから、そのような確率のものを、具体的根拠がないまま本件に当てはめることはできず、本件現場資料には他者のDNAが混在している可能性が否定できないから、被告人と犯人が同一であると認定することはできないと主張した。
  • (3)原判決の判断
     原判決は、関係証拠によれば、何者かが本件犯行を行ったことが認められるとした上、鈴木鑑定人はDNA型鑑定を実施する上で十分な知識を有していると認められ、鈴木鑑定の内容にも特段不合理な点はないとして、同鑑定の信用性を肯定し、原審弁護人の主張を排斥して、被告人が本件犯行を行ったと認定した。
  • (4)当審の経過等
    • ア 被告人が原判決を不服として控訴をし、原判決は鈴木鑑定の評価を誤っており、本件現場資料は混合資料の可能性があると主張した。
       当審では、検察官及び弁護人が証拠請求した文献(当審検書1、当審弁1)を取り調べ、さらに、鈴木鑑定人の証人尋問(当審検人1)を実施した。
       なお、検察官は、捜査段階の被告人の供述調書について、証拠請求をする予定はない旨釈明した。
    • イ 鈴木鑑定人は、当審公判廷において、次のとおり供述した。
       「C鑑定と異なる型が検出されたのは、検査した綿棒の部位が違うからである。精液は血液などのように一様に混ざっているものではなく、ある部分には、新たに生じた変異を持った細胞が偏って存在しているが、他の部分にはそれが存在しないことは十分あり得る」
       「15の座位については、それぞれ大体10種類以上のアリール型が存在する。したがって、親子や一卵性双生児でない任意の2人を検査した場合、確率的に、どの座位においても2種類以上のアリール型がないというようなことはあり得ない。必ず、3種類、最大4種類のアリール型が検出される。本件において、D19S433座位についてだけ3 種類のアリール型が検出され、他の14の座位の中に3種類以上のアリール型が検出されたものがないことは、本件現場資料が1人分由来であることを示している。採取元が配偶子であることを考えれば、新規に生じた変異と考えるべきである」。
       「15種類の座位のうち、14種類が同じだけれども最後の1種類が違うという事例を経験したことはないし、計算上、そういうことはまずないと思う」。
       「日本人集団における型の出現頻度を調べたデータを使えば、15座位について一致した場合それぞれの座位で最もありふれた型を持った個人の存在頻度ですら計算上4兆7000億分の1になる。したがって、15のうち1つが矛盾するのであれば、14だけを使うという考え方もあるが、それでは非科学的になるから、他の検査キットを用いるというのが鑑定の基本的な態度になる。今回は、警察の鑑定によって本件現場資料が精子であることは証明されているため、変異であると考えられるから、IDPによる検査で十分と判断し、それ以上の検査をしなかった」。
  • (5)当裁判所の判断
     鈴木鑑定及び当審における鈴木鑑定人の説明をもってしても、本件現場資料が混合資料である疑いを払拭することができず、被告人が本件犯行を行ったことについては合理的疑いが残るから、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があるといわざるを得ない
     その理由は、以下のとおりである。
    • ア 本件において、被告人の犯人性を立証するための証拠は、本件現場資料について行われたDNA型鑑定であるC鑑定及びD鑑定と鈴木鑑定のみである。したがって、被告人と犯人の同一性は、上記鑑定の信頼性にかかっている
       このうち、C鑑定及びD鑑定の結果自体には、特に疑問な点はない。
       しかし、一般には、資料が1人分由来のものであれば、1つの座位に3種類以上のアリール型が出現することはないのに、鈴木鑑定においては、本件現場資料のD19S433座位に3種類のアリール型が出現しており、かつ、本件現場資料が採取されたのは、本件マンションの通路上という、DNAの混合が生じてもおかしくない場所であるから、本件現場資料には、2人分以上のDNAが混入しているのではないかとの疑いが生じる。そして、その疑いが払拭されない限り、C鑑定も、混合資料の一部が当初のオリジナルな型以外の形式で再現されたものである可能性を否定できないことになるから、結局、上記C鑑定の信頼性も、鈴木鑑定の信頼性にかかっている。
    • イ 鈴木鑑定及び鈴木鑑定人の当審公判供述によると、本件現場資料のD19S433座位に3種類のアリール型が出現しているにもかかわらず、本件現場資料が1人分由来のものであり、かつ、そのDNA型がD19S433座位にアリール型「14.2」を持たない被告人の口腔内細胞のDNA型と一致するとする根拠は、結局、次の点に要約できるものと理解できる。
      • (ア)本件現場資料では、D19S433座位以外の14の座位から3種類以上のアリール型が検出されていないところ、他人のDNAが混合しているのに、他の14の座位から3種類以上のアリール型が出現しないというのは、14の座位全てが一致する別人が存在するということで、確率の上でも、これまでの経験からも考えられないから、本件現場資料は、1人分由来のものと見るべきである。
      • (イ)本件現場資料は精子であるところ、精子のもとになる精原細胞については、一定割合で、反復単位が1反復単位分抜けた変異精原細胞が形成されるから、これが減数分裂することにより、反復単位が1反復単位分抜けた精子が形成されることがあるが、被告人の体細胞のD19S433座位のアリール型は「14、15.2」であるから、本件現場資料から検出されたアリール型「14.2」はそのような変異により生じたものと考えられる
    • ウ しかし、上記説明は、刑事裁判の事実認定に用いるためのものとしては、十分なものとはいえない。
       まず、(ア)の点については、親子や一卵性双生児でない任意の2人を検査した場合、14種類の座位が一致し、1種類の座位のみが一致しない確率が相当に低いことは、鈴木鑑定がいうとおりであろう。したがって、本件現場資料が、1人分に由来する可能性が高いことも鈴木鑑定がいうとおりだと思われる。しかし、仮に、本件現場資料が、混合資料だとしたら、混合する資料のDNA型や資料の量のいかんにかかわらずそのように言えるかは疑問である。すなわち、混合した資料の数や量次第では、15の座位全てにおいて、混入したDNAの全ての型が一様に同程度の鮮明さで検出されるとは限らないのではないか、換言すれば、混入したいくつかのDNAの量に差異があれば、中には微量のため検出されないアリール型が生じるのではないか、また、逆に、重畳効果により1つの資料に含まれる以上にその存在が強調されるアリール型もあるのではないか、その結果、外観上、多くの座位で一人分に由来するように見える、もととなるDNA型とは異なるDNA型が出現・検出される可能性があるのではないかなどという疑いを禁じ得ない。鈴木鑑定は、資料が混合された場合、そこに含まれるアリール型が全て同様に検出されることを前提としているものと思われるが、そのように考えるべき明確な根拠は示されていない。
       のみならず、鈴木鑑定のこの点に関する見解は、若干場面を異にするとはいえ、15座位のうち14座位のアリール型が一致すれば同一性を肯定するという考えを前提とするものということができ、もちろん、こうした見解も十分あり得るものと思われるが、現在の刑事裁判の実務は、IDPによるDNA型検査の結果を人の同一性識別に使用するためには、15座位のアリール型の一致を求めるという慎重な運用をしているのが一般と思われるから、この見解は、現在の実務の一般的な運用を超えるものがあるようにも思われ、他に、十分な根拠がない限り、直ちには採用し難いものと考えられる。
       そこで、(イ)の点が上記の十分な理由になり得るかという観点から検討すると、精原細胞で突然変異が起こる可能性があり、また、その場合、反復単位が1反復単位分抜けた精子が形成される可能性が高いことについては、同旨の文献も存在しており(当審検書1、同弁1)、鈴木鑑定の説明は、本件の状況をよく説明するものということができる。しかし、鈴木鑑定においても、それ以上に、本件において、突然変異が生じたことを積極的に示す根拠は示されていない。上記文献の中には、そのような突然変異が起こる確率は1座位につき0.2%程度とするものもあり、15座位全体として見ても、突然変異が起こる確率はさほど高いものではないと考えられるから、他にこれが生じたことを認めるに足りる積極的な根拠がないのに、本件において、そのような現象が起きたと断じることには躊躇を感じざるを得ない。そして、実際、本件において、そのような積極的根拠は見当たらないし、被告人の精原細胞に突然変異が起きているものがあることを裏付ける証拠もない
       なお、鈴木鑑定人は、同鑑定人が鑑定の対象とした資料が精子であることを前提に上記のような説明をしているが、同鑑定人自身は、本件現場資料が精子であるかどうかの検査はしておらず、確かに、C鑑定人は、本件綿棒の一部を切り取って、細胞を染色した上で、顕微鏡で確認したところ、精子以外に特異な細胞を認めなかったと供述しているが(C鑑定人の原審公判供述)、現に本件現場資料についてのC鑑定と鈴木鑑定の検査結果は異なっているのだから、本件現場資料が均一なものであるとの保証はなく、鈴木鑑定で用いたDNA抽出方法も、膣内容を拭った資料(膣スワブ)専用キットを用いた場合ですら、主に精子核DNAが回収できるというにすぎないものであるから(鑑定書(原審職2))、上記前提が確実に成り立つものであるかも疑問である。
       鈴木鑑定の上記説明は、本件現場資料が被告人の精液に由来するものだとした場合、本件現場資料は被告人に由来するものであるとの鈴木鑑定の最終結論を矛盾なく説明するものではあるけれども、本件現場資料が混合資料である可能性を、合理的疑いなく排除できるだけの積極性まで有するものではないといわざるを得ない
    • エ 結語  以上によれば、鈴木鑑定及び当審における鈴木鑑定人の説明をもってしても、本件現場資料が混合資料である疑いを払拭することができず、被告人が本件犯行を行ったことについては合理的疑いが残るから、本件公訴事実については、証明が十分でないといわざるを得ない。それなのに、原判決は、被告人が本件犯行を行ったと認定したから、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があるといわざるを得ない。
       論旨は理由がある。
       破棄自判
        そこで、刑訴法397条1項、382条により原判決を破棄した上、同法400条ただし書により、被告事件について、当裁判所において更に次のとおり判決する。
        本件公訴事実の要旨は、前記のとおりであるが、前記のとおり、同事実については犯罪の証明がないから、刑訴法336条後段により被告人に対し無罪の言渡しをする。 よって、主文のとおり判決する。

第2 最高裁判決

平成30年5月10日、最高裁第一小法廷は、
 「検察官の上告趣意は、判例違反をいう点を含め、実質は事実誤認の主張であって、刑訴法405条の上告理由に当たらない。」としながらも、「所論に鑑み、職権をもって調査すると、原判決は、刑訴法411条3号により破棄を免れない。」として、以下に記載する理由で、「原判決を破棄する。本件控訴を棄却する。」との判決を下した。

 1 当審までの経緯

  • (1)本件公訴事実の要旨の表示は、第一審、控訴審と同一である。
  • (2)被告人は犯人との同一性を争ったが、第一審判決は、本件の現場で採取された精液様の遺留物(以下「本件資料」という。)について実施された鈴木鑑定人によるDNA型鑑定を踏まえ、以下のとおり被告人を犯人と認めて、公訴事実どおりの犯罪事実を認定し、被告人を懲役1年に処した。
     本件資料は、犯人が犯行の際に遺留した精液であり、そのDNA型は被告人に由来するものであって、被告人の精液であることが認められる。また、被告人が犯人として射精する以外に被告人の精液が現場に遺留されるような理由は見当たらない。
  • (3)第一審判決に対し、被告人は事実誤認を理由に控訴した。原判決は、本件資料が混合資料である疑いを払拭することができず、鈴木鑑定の信用性には疑問があり、被告人と犯人との同一性については合理的疑いが残るとして、事実誤認を理由に第一審判決を破棄し、被告人に対し無罪の言渡しをした。
  • (4)しかしながら、原判決の上記判断は是認することができない。その判断理由は、以下のとおりである。
    • ア 第一審判決及び原判決の認定並びに記録によると、本件の事実関係は、以下のとおり である。
      • (ア)犯人は、帰宅した住人に追従して、オートロック式の出入口から本件マンションに侵入し、自己の陰茎を露出して手淫しながら、1階通路から階段で2階通路に上がり、上記住人方の玄関前まで後を追った。上記住人は、手淫している犯人に気が付き、玄関ドアを閉めて、110番通報した。間もなく臨場した警察官が現場の実況見分を実施したところ、上記住人方の玄関ドア下の通路上に液状の精液様のたまりを発見し、専用綿棒を使って本件資料を採取した。
      • (イ)捜査段階で、科捜研鑑定では、本件資料が付着した綿球部分から1か所を切り取り、精液検査により、多数の精子を認めた一方、精子以外の特異な細胞が見当たらず、また、STR型検査等により検出された15座位のSTR型とアメロゲニン型が被告人の口腔内細胞のものと一致した。
      • (ウ)鈴木鑑定は、本件資料が付着した綿球部分から2か所を切り取り、科捜研鑑定とは別のキットを使って抽出した3つのDNA試料液について、STR型検査等を実施したところ、それぞれ14座位のSTR型とアメロゲニン型が科捜研鑑定と一致したものの、1座位で、科捜研鑑定と合致する2つのSTR型に加え、これと異なる3つ目のSTR型を検出した。これについて、鈴木鑑定は、15座位のSTR型の検出状況等から、本件資料は1人分のDNAに由来し、被告人のDNA型と一致する、上記1座位で検出された3つ目のSTR型は、男性生殖細胞の突然変異に起因すると考えられ、他者のDNAの混在ではない、とした。
    • イ 原判決は、一般には、資料が1人分のDNAに由来すれば、1座位に3種類以上のSTR型が出現することはないのに、鈴木鑑定で、上記1座位において、3種類のSTR型を検出し、かつ、本件資料がマンションの通路上という他者のDNAの混合があり得る場所で採取されたことから、2人分以上のDNAが混入している疑いが生ずる、鈴木鑑定が本件資料に他人のDNAが混合した疑いがないとしたのは、刑事裁判の事実認定に用いるためのものとしては十分な説明がされていない、とする。
       しかしながら、鈴木鑑定は、本件資料から抽出した3つのDNA試料液の分析結果に基づいて、15座位で、それぞれ1本又は2本のSTR型のピークが明瞭に現れ、かつ、そのピークの高さが1人分のDNAと認められるバランスを示していると説明するところ、1座位で3つ目のSTR型が検出された点に関する上記説明を含め、その内容は専門的知見に裏付けられた合理的なものと認められる。
       これに対し、原判決は、本件資料が混合資料であるとすれば、混合したSTR型の種類や量によっては、外観上多くの座位で1人分のDNAに由来するように見える形で、もととなる型とは異なるSTR型が出現する可能性がある、というが、鈴木鑑定人が原審の証人尋問でその可能性を否定しているのに対し、原判決の根拠となる専門的知見は示されていない。そして、原判決は、鈴木鑑定で被告人のSTR型と完全に一致したのは14座位であったことの推認力に限界があると指摘する一方、鈴木鑑定が、上記15座位で現れたSTR型のピークと高さを分析した結果に基づいて、本件資料が1人分のDNAに由来すると説明した点については、特に検討していない。
       さらに、原判決は、科捜研鑑定についても、混合資料の一部が当初のオリジナルなSTR型以外の形式で再現されたものである可能性が否定できない、鈴木鑑定と科捜研鑑定の結果が食い違っているから、本件資料が精子であるとの前提が確実に成り立つかどうかも疑問である、という。しかしながら、本件資料が採取された経緯、その保管及び各鑑定の実施方法には問題がないこと、上記のとおり、科捜研鑑定の精液検査で精子が確認され、鈴木鑑定と科捜研鑑定の結果がほとんど一致していることを踏まえると、本件資料に犯人の精子以外の第三者のDNAが混入した可能性は認め難い。結局、原判決は、鈴木鑑定が本件資料を1人分のDNAに由来するとした理由の重要な点を見落とした上、科学的根拠を欠いた推測によって、その信用性の判断を誤ったというべきである
    • ウ 以上によれば、原判決が、本件資料は1人分のDNAに由来し、被告人のDNA型と一致する旨の鈴木鑑定の信用性には疑問があるとして、被告人と犯人との同一性を否定したのは、証拠の評価を誤り、ひいては重大な事実の誤認をしたというべきであり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであって、原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると認められる。
       よって、刑訴法411条3号により原判決を破棄し、上記の検討によれば、第一審判決の事実誤認を主張する被告人の控訴は理由がないことに帰するから、同法413条ただし書、414条、396条により、これを棄却することとし、原審における訴訟費用の不負担につき同法181条1項ただし書を適用し、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
       (裁判長裁判官小池裕 裁判官池上政幸 裁判官木澤克之 裁判官山口厚 裁判官深山卓也)

第3 検討(1)-本件現場資料は一人分に由来するか-
 1 第一審判決の問題点

  • (1)被告人と本件犯行を結びつける証拠が欠如していること
     第一審における「証拠の標目」をみるに、被告人の公判供述、証人B、同C、同D、同E、同Fの各公判供述、Aの警察官調書(甲1〔同意部分に限る。〕)、Gの警察官調書(甲2〔同意部分に限る。〕)、実況見分調書(甲5)、捜査報告書(甲10)、鑑定書(甲7、職2、3)、鑑定書抄本(甲9)が列挙されている。
     控訴審が「原審の証拠構造」において言及するように、「原審において、被告人は、本件犯行を行っておらず、防犯カメラの画像に残された犯人が着用していた帽子や眼鏡は持っていないなどと供述して、犯罪の成立を争った」。ところが、原審において、奇異なことに、「被告人と犯行を結びつける証拠としては、被告人の自白や目撃者の犯人識別供述はなく(被告人が犯行直後に犯行を自白した弁解録取書はあるようであるが、検察官が被告人質問中で言及しているだけで、証拠請求はされておらず、また、上記目撃者は犯人の識別供述をしていない。)」というのである。したがって、本件では、被告人が犯人であるとの識別がなされていないのである。
  • (2)本件犯行そのものに関する証拠
     犯人が誰であるかは特定されないが、犯行そのものに関する証拠の取り調べは行われた。本件犯行そのものに関する証拠としては、本件犯行を目撃したという本件マンションの住人の警察官調書(原審甲2)、精液様のものが本件マンション2階通路から採取されたこと等を記録した本件マンションの実況見分調書(原審甲5)、上記精液様のものは精液であるとする鑑定書(原審甲7)、犯行状況を撮影した防犯カメラの映像を録画したDVDを添付した捜査報告書(原審甲10)等である。
     控訴審が指摘するように、本件では、被告人と犯行を結びつける証拠としては、精液様のもののDNA型が被告人のDNA型と一致するとする2つの鑑定(控訴審検書1、控訴審弁1)のみである。
  • (3)第一審判決は、被告人が犯人であるとの基本的な識別作業を履践せず、精液様のもののDNA型鑑定により、被告人が犯人であると特定しようとした。ここに、第一審判決の証拠構造が脆弱であるという根本的な問題があった。

 2 科捜研によるDNA型鑑定

  • (1)第一審判決が認定するように、「大阪府堺警察署所属警察官が、本件直後に、本件マンションの2階通路上に貯留していた精液様のもの(「本件現場資料」)を「本件綿棒」で採取し、滅菌バッグに封入した上、一旦、同警察署の証拠品係の冷蔵庫に保管し、鑑定のため科捜研に持ち込んだ」。捜査段階に大阪府警察本部刑事部科捜研所属のC鑑定人は、本件綿棒の一部を切り取って精液検査を行い、さらに、残部の一部を切り取って、本件現場資料につき、IDPにより、STR型検査及びアメロゲニン型検査を行った(同人の鑑定書(原審甲7)及び同人の原審公判供述であるC鑑定)。また、科捜研所属のD鑑定人により被告人の口腔内細胞のDNA型鑑定が行われた。その結果、15座位のSTR型及びアメロゲニン型の全てについて、D鑑定による被告人の口腔内細胞のそれと一致した(鑑定書(原審甲9)及び同人の原審公判供述であるD鑑定)。
  • (2)第一審判決は、証拠によれば、「本件現場資料」は、犯人が本件犯行の際に遺留した精液であり、そのDNA型は被告人に由来するものであって、当該精液が被告人のものであることが認められる。また、被告人が本件犯行の犯人として射精する以外に、被告人の精液が犯行現場に遺留されるような理由は見当たらない。これらの事情からすると、被告人が本件犯行の犯人であったと認められる、とした。

 3 鈴木鑑定人による鑑定-DNA型鑑定の信用性崩壊の危機-

  • (1)弁護人は、証人Cによる本件現場資料のDNA型鑑定においてはD19S433のローカスで14.2のアリールにピークが出現していないのに、鈴木鑑定人による鑑定では、同ローカスで14.2のアリールにピークが出現していることからすると、本件現場資料には犯人以外の者の細胞が混入している可能性があり、本件現場資料と被告人の口腔内細胞のDNA型が一致しているとは認められない旨主張した※4
     さらに、弁護人は、鈴木鑑定人による鑑定では、14.2のアリールにピークが出現していることに着目し、本件現場資料が混合資料であるとの疑いがあるとした。弁護人の主張は当然であるが、正鵠を得ていると思料する。
  • (2)これに対して、第一審裁判所は、「鈴木鑑定人はDNA型鑑定を実施する上で十分な知識を有していると認められるところ、鈴木鑑定人は、本件現場資料のDNA鑑定書(職2)において、D19S433のローカスで14.2のアリールにピークが検出された点も考慮した上で、STR型ピークの検出状況から本件現場資料のDNA型が一人分に由来すると考察しており、その内容に特段不合理な点があるとは認められない。そうすると、本件現場資料に犯人以外の者の細胞が混在していたとは認められないというべきであって、弁護人の上記主張は採用できない」とするが、多々疑問が生じ得る。
     第一審裁判所は、「鈴木鑑定人はDNA型鑑定を実施する上で十分な知識を有していると認められる」とするが、果たして、正しい評価であろうか※5 。鈴木鑑定人は、「日本人集団における型の出現頻度を調べたデータを使えば、15座位について一致した場合それぞれの座位で最もありふれた型を持った個人の存在頻度ですら計算上4兆7000億分の1になる」と供述しているが、DNA鑑定の専門家である押田茂實教授らによれば、2009年段階で、15種のSTRを用いたDNA鑑定では10の20乗(1垓)分の1の精度で鑑定できるという※6
     鈴木鑑定人による鑑定では、同ローカスで14.2のアリールにピークが出現していることについて、「STR型ピークの検出状況から本件現場資料のDNA型が一人分に由来すると考察しており、その内容に特段不合理な点があるとは認められない。」とした。しかし、STRの最大のメリットは、キット化された試薬と自動化された解析装置を用いるものであり、検査結果が数値であり安定的で客観的な解析がなされ、型判定は、検査者の目視確認ではなく、解析ソフトによる数値判定であり、最も公平な客観的検査法であるといわれる※7 。確かに、同一試料であっても、試料設定でも微妙に結果が異なり得ることも指摘されているが、鈴木鑑定人により行われた同ローカスで14.2のアリールにピークが出現したとの検査結果は、尊重されてしかるべきであろう。
     でないとすれば、10の20乗分の1の精度を前提とするこの鑑定方法の信用度は、瓦解し地に堕ちることになろう。本件現場資料に犯人以外の者の細胞が混在していたと、認めざるを得ない※8
  • (3)この点に関し弁護人は、「鈴木鑑定人が証人尋問の際、上記ローカスで14.2のアリールにピークが出現した原因と考察する変異精原細胞の出現可能性に関し、「真実の父子であるという組み合わせを調べたデータでは、何万組かに1件はY-STRのローカスの一つで、そのようなことが起こっているという文献はある、あったと記憶はしております。」と供述したことを根拠に、変異精原細胞の出現は「何万組かに1件」という確率でしか生じないものとした上で、このような低い確率でしか生じない原理を具体的な根拠がないまま、本件に当てはめることは合理的とはいえない」などと主張した。
     鈴木鑑定人の「真実の父子であるという組み合わせを調べたデータでは、何万組かに1件はY-STRのローカスの一つで、そのようなことが起こっているという文献はある、あったと記憶はしております。」との供述にも疑問を覚える。まず、本件における検査は、マルチプレックスSTR法であり、父系統血縁関係を証明するために用いられる性染色体STR(Y-STR)の考慮は無用であるといわなければならない。次いで、鈴木鑑定人の供述が正しいとしても、Y-STRのローカスの一つで何万組かに1件の極微少の確率で「真実の父子であるという組み合わせを調べたデータ」による変異精原細胞が出現するにすぎない。何万組かに1件の可能性だけで、犯人性が肯定されるべきでない。そして、鈴木鑑定人の「文献はある、あった」との記憶は、ほとんど無意味であり、変異精原細胞の出現を確証することにはなり得ていない
      とはいえ、筆者は、変異精原細胞の出現に関する文献の存在の有無や、それが存在するときのその内容について知り得ていないので極めて興味を覚えるところである。読者におかれては、そのような細胞が出現するデータなどについての情報の提供と御教示を求めたい。
  • (4)さらに、「鈴木鑑定人の上記供述を前提とすると、変異精原細胞によって生じた精子が受精し、当該受精卵が成長して子が出生する割合が「何万組かに1件」程度と考えられるのであって、変異精原細胞が出現する確率自体はそれよりも相応に高いものと考えられる。弁護人の主張は、鈴木鑑定人の供述を誤解するものといわざるを得ず、鈴木鑑定人の判断に合理的な疑問を生じさせるには足りないというべきである」。
     この鈴木鑑定人の供述部分は、不可解である。何故、「変異精原細胞によって生じた精子が受精し、当該受精卵が成長して子が出生する割合」を考慮する必要があるのであろうか。本件現場資料中に変異精原細胞が存在したことが確認されてもいないので、そもそも机上の空論であり、無関係の内容を供述しているといわなければならない。
  • (5)鈴木鑑定には、DNA抽出方法として、膣内容を拭った資料(膣スワブ)専用キットを使用したことの記述がある。しかし、DNA抽出方法として、性感染症検査などを目的とするこのようなキットを使用することにいかなる意味があるのであろうか。控訴審判決は、このキットを用いた場合ですら、主に精子核DNAが回収できるというにすぎないと指摘した。袴田厳の再審請求事件において、本田克也教授が、鈴木鑑定人が自らの手でDNA型鑑定はやれないし、やっていないと記載していたことに得心した※9

第4 検討(2)-控訴審における事実誤認の審査-
 1 控訴審の判断が正鵠を得ていること

  • (1)大阪医科大学鈴木廣一教授のDNA型鑑定の問題性
     第一審判決の問題点で指摘したように、同判決の論理は錯綜している。その理由は、以下のとおりである。
     鈴木鑑定人の供述が科学的に是認されるためには、本件現場資料に変異精原細胞が存在していること、その存在が原因となり、ローカスで14.2のアリールにピークが出現する機序が証明されていることが大前提となる。しかし、本件現場資料から、変異精原細胞の存在は確認されていない。また、その細胞が存在するといかなるアリールにピークが出現するかについての経験則も示されていらず、また、何ら解明を見ていないのである。
     しかし、第一審判決は、この変異精原細胞の未確認、不検出、不存在という無立証にもかかわらず、鈴木鑑定人の鑑定と供述を是認した。1垓分の1の精度を基礎とするDNA型鑑定は、鈴木鑑定人の憶測、推測によりその正当性と信用性を否定された。筆者は、第一審判決には、論理の矛盾、錯綜があると指摘したい。
     最高裁判決は、原判決をして、「原判決は、鈴木鑑定が本件資料を1人分のDNAに由来するとした理由の重要な点を見落とした上、科学的根拠を欠いた推測によって、その信用性の判断を誤ったというべきである。」、そして、「原判決が、本件資料は1人分のDNAに由来し、被告人のDNA型と一致する旨の鈴木鑑定の信用性には疑問があるとして、被告人と犯人との同一性を否定したのは、証拠の評価を誤り、ひいては重大な事実の誤認をしたというべきであり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであ」ると断じた。
     しかし、原判決の判断が正鵠を得ている。すなわち、アリール14.2の発現が混合資料、すなわち第三者の体液の混淆を意味すると言うことである。それに対して、鈴木鑑定人は、アリール14.2の発現が、変異精原細胞によるものであり、このアリール14.2の発現は、被告人のDNA型の結論に影響を及ぼさないと供述した。しかし、例え変異精原細胞の存在が確認されたとしても、アリール14.2が発現するとの結論の経験則は何ら検証され、確立していないのである。

 2 最高裁による職権破棄事由

  • (1)事実誤認に関する審査と著反正義
     刑事訴訟法は、上告理由を憲法違反、判例違反に限定する一方で(刑事訴訟法405条)、最高裁による法令解釈の統一機能を補充するために上告受理の制度(同法406条)を、また、事案の適正な処理と当事者救済を図る趣旨から、職権破棄の規定(同法411条)を設けた。この規定により、上告理由がない場合でも、原判決に法令違反(同条1号)、量刑不当(同条2号)、事実誤認(同条3号)等があり、破棄しなければ著しく正義に反すると認める場合には、職権で原判決を破棄できる旨定めている。
     このように、刑事訴訟法411条には、職権破棄事由が規定されているので、上告審においては、憲法違反、判例違反の適法な上告理由に当たらず、「上告趣意は、(憲法違反をいうが)実質は、単なる法令違反、事実誤認、量刑不当の主張であって、適法な上告理由に当たらない。」として、上告棄却の決定(刑事訴訟法414条、386条1項3号)がされる場合でも、上告審としては、同条の職権破棄事由がないか否かが必ず検討されているとされる※10 。上告審は、憲法判断と法令解釈の統一及び具体的救済を図るために、事後審であるが、原則として法律審であることから、上告審において、上告人より、事実誤認の主張がされた場合の審査の方法が問題となった。
     刑事訴訟法411条3号の法意については、既に、二俣事件上告審判決※11 において、「公訴事実について自ら事実審理をする権能のない上告裁判所においては、原判決に如何なる事実の誤認があるかを確定することができない場合もあるから、右刑訴411条3号の法意は、判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認があると疑うに足る顕著な事由があって、もしこの疑が存するにかかわらず原判決を維持しその判決を確定させたとすれば著しく正義に反するときは、原判決に法令の違反はなくても、これを破棄することをも上告裁判所に許したものといわなければならない。」と判示された。その後、この法意理解は、是認され確立した判例となってきており※12、近年の判例においても、これまでの最高裁の判例の立場を確認し維持していたことを確認することができる※13
  • (2)著反正義
     では、刑事訴訟法411条柱書きの「著しく正義に反する」とき、また、判例で「判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認があると疑うに足る顕著な事由があって、もしこの疑が存するにかかわらず原判決を維持しその判決を確定させたとすれば著しく正義に反するとき」とはいかなる場合であるか。学説は、「同条各号の事由が主文に影響し原判決を維持することが耐え難い場合を指す」とされている※14。実務では、「著しく正義に反しない」点を捉えて、「不著反正義条項」とも呼ばれる。
      上告審は、事実審とは異なり書面審理であり、不著反正義条項があるにもかかわらず、原判決が破棄される事例が目立つし、その判決には反対意見が付される事例も珍しくない、といわれる※15。本件では、破棄自判の判決について、反対意見はないが、「刑事裁判における有罪の認定に当たっては、合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が必要である」ところ、上告審における書面審査により、原判決の認定が論理則、経験則等に照らして不合理といえるかが問われなければならない。本件でも、事情は同一である。
  • (3)最高裁判決の問題性
    • ア まず、最高裁第一小法廷は、第一審判決及び原判決の認定並びに記録から、本件の事実関係を、以下のとおり認定した。
       「犯人は、帰宅した住人に追従して、オートロック式の出入口から本件マンションに侵入し、自己の陰茎を露出して手淫しながら、1階通路から階段で2階通路に上がり、上記住人方の玄関前まで後を追った。上記住人は、手淫している犯人に気が付き、玄関ドアを閉めて、110番通報した。間もなく臨場した警察官が現場の実況見分を実施したところ、上記住人方の玄関ドア下の通路上に液状の精液様のたまりを発見し、専用綿棒を使って本件資料を採取した」。
       しかし、控訴審判決が明示しているように、第一審においては、被告人と犯行を結びつける証拠としては、「被告人の自白や目撃者の犯人識別供述はなく(被告人が犯行直後に犯行を自白した弁解録取書はあるようであるが、検察官が被告人質問中で言及しているだけで、証拠請求はされておらず、また、上記目撃者は犯人の識別供述をしていない。)」のである。また、控訴審において、検察官は、捜査段階の被告人の供述調書について、証拠請求をする予定がない旨も釈明した。ところが、最高裁判決では、目撃者による犯人の識別情報が認定されているのである
    • イ 捜査段階で、科捜研が実施した鑑定では、精液検査により、多数の精子を認めた一方、精子以外の特異な細胞が見当たらず、また、STR型検査等により検出された15座位のSTR型とアメロゲニン型が被告人の口腔内細胞のものと一致したことには争いがない。
       しかしながら、鈴木鑑定人による鑑定と供述は、第一審判決の問題性及び原判決の正鵠性のところで既述したように、非科学的であり、DNA鑑定の信用性を台無しにするものである。この鑑定と供述に依拠する第一審の判断については、原判決は、「本件現場資料が混合資料である疑いを払拭することができず、被告人が本件犯行を行ったことについては合理的疑いが残るから、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があるといわざるを得ない。」と結論したが、この結論には理があると言い得る。

第5 本件事件判決が袴田事件に及ぼした、また、及ぼし得る影響
 1 本件事件判決が袴田事件に及ぼした影響

  • (1)筆者は、本件事件判決が袴田事件の第二次再審請求即時抗告審(以下、「即時抗告審」という。)に多大な影響を及ぼしたと理解する。それは、インターネット上の即時抗告審における事件の流れから明らかとなる。当初、「袴田事件、高裁審理がようやく終結へ、今年度中に再審可否を決定」とされており※16、即時抗告審の決定は、年度内と予想されていた。
     ところが、年度内に決定は下されず、「袴田事件」の第二次再審請求即時抗告審で、再審開始の可否について、弁護団は5月7日、東京高裁(大島隆明裁判長)が6月11日に判断を示すことを明らかにした※17。時系列に考慮すると、本件事件判決が5月10日に下されたことから、東京高裁は、10日に下される最高裁判決の判決内容を知り得たのではないか、そして、その内容に迎合して、静岡地裁の下した再審開始決定を取り消す内容を書きしたためた、と言えないであろうか。
     大島隆明裁判長は、横浜地裁では、かの平成20年10月、戦時下最大の言論弾圧とされる「横浜事件」の治安維持法違反罪で有罪となった男性の再審開始を決定したことでも知られていた。今回の再審開始決定の取消しは、ある意味では意表を突くものであり、最高裁への忖度を感じさせる※18
  • (2)本件事件で鑑定人を務めた大阪医科大学鈴木廣一教授のDNA型鑑定と供述の内容に関する問題性を再確認しなければならない。筆者が勤務していた熊本大学のお膝元では、水俣病という大問題が生じていた。現代日本において登場したのが「御用学者」といわれる類の学者である。この登場は、「水俣病」が嚆矢であるとされる※19 。本件即時抗告審では、検察側から20通を超える意見書が提出されていたという。多数の学者を擁して、真実発見ができるのであれば、何ら問題はなかろう。
     しかし、即時抗告審では、静岡地裁が慎重な考慮を重ねて依拠した筑波大学本田克也教授の鑑定が一蹴された。即時抗告審では、裁判体は、鈴木鑑定人に対して、鑑定内容を袴田巌が着用していたとされる5点の着衣のうち半袖シャツの右腕上部の血痕模様の鑑定の検証実験として命じたはずであった。ところが、鈴木鑑定人は、鑑定方法すべてを本田鑑定と異なる方法を意図的に採用して、本田鑑定の検証ではなく、鑑定方法の誤りにすり替えたのである。
  • (3)にもかかわらず、東京高裁は、命ぜられた鑑定事項とは異なる鈴木鑑定書に全面的に依拠して、静岡地裁の再審開始決定を取り消した。この再審開始請求を棄却する東京高裁の判断においては、多くの判断がなされたわけでない。鈴木鑑定に関してだけ言及すると、犯人が着ていたとされる半袖のシャツに付いた血痕のDNA型鑑定について、静岡地裁は、本田鑑定に基づき、特別なたんぱく質を使った独自の手法で「血痕は被害者のものでも袴田元被告のものでもない」と結論づけた弁護側のDNA型鑑定を採用した。しかるに、東京高裁は、そもそも、衣類は保存条件が悪いなどの理由でDNAの分解がかなり進んでいて、DNA鑑定によって検出できない状態になっている可能性がある。その上で、弁護側の鑑定方法「選択的細胞抽出法」は、新規の手法であり確立した科学的手法とは言えず、信頼性が十分でないとしたのである※20

2 本件事件判決が袴田第二次再審特別抗告審に及ぼす影響への懸念

 即時抗告審における鈴木鑑定は、着衣に付着した血液のDNA型の再鑑定ではなく、本田克己教授による鑑定方法の鑑定(または、単なる意見)に過ぎない。つまり、鈴木鑑定は、付着した血液の再鑑定を実施していないのである。鈴木教授は、なぜ血液のDNA型鑑定のために、細胞の抽出を履践しないのかとの当然の疑問が生じよう。端的に言えば、鈴木教授は細胞を抽出して、DNA鑑定をすることができないからではないのか。
 DNA鑑定に使用するための細胞を抽出する技量を有しない鑑定人が他者の鑑定方法を否定する愚かさに怒りを禁じ得ない。着衣から抽出された細胞から袴田巌のDNA型が検出された訳でもないのに、袴田巌が確定死刑囚であり続ける理由はないといわなければならない ※21。袴田事件は、まさしく警察と検察による捏造事件に他ならないのであり、DNA鑑定や味噌漬けの着衣の色合いが取り立てて論ぜられるべきではない。いつの間に、凶器とされた栗小刀などによる虚構の犯行は、雲散霧消したのであろうか。
  最後に、筆者は、大いに懸念することがある。本件は、最高裁第一小法廷で判断された。著反正義を理由に、破棄自判した本最高裁判決の認定は、論理則、経験則等に照らして不合理であり、得心できない。

(掲載日 2018年7月9日)

  • Westlaw Japan文献番号2018WLJPCA05109001
  • Westlaw Japan文献番号2017WLJPCA04276001
  • Westlaw Japan文献番号2016WLJPCA09216013
  • 「DNA鑑定についての指針(2012年)」は、「Multiplex PCR法によるマイクロサテライト(STR)多型の検出時に、非特異的な微弱ピークやスタターピークを除いても1ローカスに3本以上のピークが検出されるなど、混合資料であることが疑われた場合、検査結果のみから混合前の各資料の型を特定することは困難である。例えば、検査結果から被疑者のDNAに由来するピークが含まれる予想が説明できたとしても、それは数多くの組み合わせの中の一解釈であることを考察する必要がある。混合資料と考えられる場合の泳動像の解釈は、現状ではすべてのケースに共通する統一された基準は存在しないため、ケースごとに適切な表現をするよう努めなければならない」(http://dnapol.org/guideline)としている、本件における鈴木鑑定は、この指針に明らかに反している。
  • 矢澤曻治編著『再審と科学鑑定』(日本評論社、2014年)14頁など。
  • 「法医学におけるDNA型鑑定の歴史」日本医誌(2009)68(5)282。
    (https://www.jstage.jst.go.jp/article/numa/68/5/68_5_278/_pdf/-char/ja)。
  • 「DNA鑑定の方法」法科学鑑定研究所(http://alfs-inc.com/DNA/001.htm)
  • 本田克也『DNA鑑定は魔法の切札か』(現代人文社、2018)144頁以下。
  • 本田・前掲書239頁。
  • 高橋省吾「掲示事実認定に関する最近の最高裁判例について」『山梨学院ロー・ジャーナル』8巻(2013)29頁以下に依拠する所が大きい。
  • 最判昭28.11.27刑集7巻11号2303頁、Westlaw Japan文献番号1953WLJPCA11270006
  • 松川事件大法廷判決(最大判昭34.8.10刑集13巻9号1419頁、Westlaw Japan文献番号1959WLJPCA08100005)。八海事件第三次上告審判決では、「本件の核心は事実誤認の有無にこそ存するのであつて、当事者においてはもとより、本件の審理を担当した各審級の裁判官が心血をそそいで来たのも、まさにこの点にほかならない。いまこれに思いをいたすならば、当審としても刑訴法411条3号に準拠し、被告人側の上告趣意及び検察官の答弁を契機として、この点に充分の検討を加え、事案の真相を洞察する必要を痛感するのである。しかし、事実審たる、一、二審と異なり、制度上法律審であることを原則とする上告審が、事実認定に関する原判断の当否に介入するについては、おのずから限界の存することもまたやむを得ないところである。
     法律が、上告審は原判決の事実誤認が重大であり、かつ、これを看過することが著しく正義に反すると認められる場合に限定して、原判決を破棄することができるとしているのも、書面審査による上告審が、事実認定の当否の判断に深く介入することは、かえつて危険であり、国民の信頼をつなぐ所以でもないからである。また、その介入の方法、限度についても、記録その他の証拠資料を検討して原判決の認定に不合理なところがないか否かの事後審査をするにとどまるのが原則であつて、原判決の認定の当否を判断するために、あらたに事実の認定をするものでないことは、いうまでもない」と判示された(最判昭43.10.25刑集22巻11号961頁、Westlaw Japan文献番号1959WLJPCA08100005)。
  • 判例は、「当審における事実誤認の主張に関する審査は、当審が法律審であることを原則としていることにかんがみ、原判決の認定が論理則、経験則等に照らして不合理といえるかどうかの観点から行うべきである」(最判平21.4.14刑集63巻4号331頁、Westlaw Japan文献番号2009WLJPCA04149001)、「当審は法律審であることを原則としており、原判決の事実認定の当否に深く介入することにはおのずから限界があり、慎重でなければならないのであって、当審における事実誤認の主張に関する審査は、原判決の認定が論理則、経験則等に照らして不合理といえるかどうかの観点から行うべきであることはいうまでもない」(最判平23.7.25判時2132号134頁、Westlaw Japan文献番号2011WLJPCA07259001)など。
  • 松尾浩也監修『条解刑事訴訟法[第4版]』1092頁、河上和雄ほか編『大コンメンタール刑事訴訟法[第2版]』595頁(原田國男執筆)も参照。
  • 高橋・前掲論文29頁以下。
  • http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2017/11/28/antena-127/
  • https://ch-news.line-apps.com/topic/4a65bc62733b/linenews/1584d96bb8c5
  • ちなみに、第一審裁判官は、元検事の寺田浩平裁判官である(http://www.e-hoki.com/judge/3632.html?hb=1)。
  • https://ja.wikipedia.org/wiki/御用学者
  • 「当裁判所は、検討の結果、Hの細胞選択的抽出法の科学的原理や有用性には深刻な疑問が存在しているにもかかわらず、原決定は細胞選択的抽出法を過大評価しているほか、原決定が前提とした外来DNAの残存可能性に関する科学的原理の理解も誤っている上、平成23年12月20日付けのH鑑定書添付のチャート図の解釈にも種々の疑問があり、これらの点を理由としてH鑑定を信用できるとした原決定の判断は不合理なものであって是認できず、H鑑定で検出したアリルを血液由来のものとして、袴田のアリルと矛盾するとした結果も信用できず、H鑑定は、袴田の犯人性を認定した確定判決の認定に合理的な疑いを生じさせるような明白性が認められる証拠とはいえないと判断した」(東京高判平30.6.11、Westlaw Japan文献番号2018WLJPCA06116001
  • 矢澤曻治『袴田巌は無実だ』(花伝社、2010)。

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